らうと云つてゐるが、それにしてもおさがりが少しも無いと云ふのである。
平野郷は城代土井の領分八万石の内一万石の土地で、七名家《しちめいか》と云ふ土着のものが支配してゐる。其中の末吉《すゑよし》平左衛門、中瀬《なかせ》九郎兵衛の二人が、美吉屋から帰つた女中の話を聞いて、郷《がう》の陣屋《ぢんや》に訴へた。陣屋に詰めてゐる家来が土井に上申した。土井が立入与力《たちいりよりき》内山彦次郎に美吉屋五郎兵衛を取り調べることを命じた。立入与力と云ふのは、東西両町奉行の組のうちから城代の許《もと》へ出して用を聞せる与力である。五郎兵衛は内山に糺問《きうもん》せられて、すぐに実を告げた。
土井は大目附|時田肇《ときだはじめ》に、岡野|小右衛門《こゑもん》、菊地鉄平、芹沢《せりざは》啓次郎、松高縫蔵《まつたかぬひざう》、安立讃太郎《あだちさんたらう》、遠山《とほやま》勇之助、斎藤|正五郎《しやうごらう[#「しやうごらう」は底本では「しやうごろう」と誤記]》、菊地|弥六《やろく》の八人を附けて、これに逮捕を命じた。
三月二十六日の夜《よ》四つ半時《はんどき》、時田は自宅に八人のものを呼んで命を伝へ、すぐに支度《したく》をして中屋敷に集合させた。中屋敷では、時田が美吉屋の家宅の摸様を書いたものを一同に見せ、なるべく二人を生擒《いけどり》にするやうにと云ふ城代の注文を告げた。岡野某は相談して、時田から半棒《はんぼう》を受け取つた。それから岡野が入口の狭い所を進むには、順番を籤《くじ》で極《き》めて、争論のないやうにしたいと云ふと、一同これに同意した。岡野は重ねて、自分は齢《よはひ》五十歳を過ぎて、跡取《あととり》の倅《せがれ》もあり、此度の事を奉公のしをさめにしたいから、一番を譲つて貰《もら》つて、次の二番から八番までの籤《くじ》を人々に引かせたいと云つた。これにも一同が同意したので、籤を引いて二番菊地弥六、三番松高、四番菊地鉄平、五番遠山、六番安立、七番芹沢、八番斎藤と極めた。
二十七日の暁《あけ》八つ時《どき》過、土井の家老|鷹見《たかみ》十郎左衛門は岡野、菊地鉄平、芹沢の三人を宅に呼んで、西組与力内山を引き合せ、内山と同心四人とに部屋目附《へやめつけ》鳥巣《とす》彦四郎を添へて、偵察に遣《や》ることを告げた。岡野等三人は中屋敷に帰つて、一同に鷹見《たかみ》の処置を話して、偵察の結果を待つてゐると、鷹見が出向いて来て、大切の役目だから、手落のないやうにせいと云ふ訓示をした。七つ半過に鳥巣《とす》が中屋敷《なかやしき》に来て、内山の口上を伝へて、本町《ほんまち》五丁目の会所《くわいしよ》へ案内した。時田以下の九人は鳥巣《とす》を先に立てゝ、外に岡村桂蔵と云ふものを連れて本町へ往つた。暫《しばら》く本町の会所に待つてゐると、内山の使に同心が一人来て、一同を信濃町の会所に案内した。油懸町《あぶらかけまち》の南裏通《みなみうらどほり》である。信濃町《しなのまち》では、一同が内山の出した美吉屋の家の図面を見て、その意見に従つて、東表口《ひがしおもてぐち》に向ふ追手《おつて》と、西裏口《にしうらぐち》に向ふ搦手《からめて》とに分れることになつた。
追手《おつて》は内山、同心二人、岡野、菊地弥六、松高、菊地鉄平の七人、搦手《からめて》は同心二人、遠山、安立《あだち》、芹沢《せりざは》、斎藤、時田の七人である。此二手は総年寄今井官之助、比田小伝次《ひだこでんじ》、永瀬《ながせ》七三郎三人の率ゐた火消人足《ひけしにんそく》に前以《まへもつ》て取り巻かせてある美吉屋《みよしや》へ、六つ半時に出向いた。搦手《からめて》は一歩先に進んで西裏口を固めた。追手《おつて》は続いて岡野、菊地弥六、松高、菊地鉄平、内山の順序に東表口を這入つた。内山は菊地鉄平に表口の内側に居残つてくれと頼んだ。鉄平は一人では心元《こゝろもと》ないので、附いて来た岡村に一しよにゐて貰つた。
追手の同心一人は美吉屋の女房つねを呼び出して、耳に口を寄せて云つた。「お前大切の御用だから、しつかりして勤めんではならぬぞ。お前は板塀《いたべい》の戸口へ往つて、平八郎にかう云ふのだ。内の五郎兵衛はお預《あづ》けになつてゐるので、今|家財改《かざいあらため》のお役人が来られた。どうぞちよいとの間|裏《うら》の路次口《ろじぐち》から外へ出てゐて下さいと云ふのだ。間違へてはならぬぞ」と云つた。
つねは顔色が真《ま》つ蒼《さを》になつたが、やう/\先に立つて板塀の戸口に往つて、もし/\と声を掛けた。併《しか》し教へられた口上を言ふことは出来なかつた。
暫くすると戸口が細目に開《あ》いた。内から覗《のぞ》いたのは坊主頭《ばうずあたま》の平八郎である。平八郎は捕手《とりて》と顔を見合せて、すぐに戸を閉ぢた。
岡野等は戸を打ちこはした。そして戸口から岡野が呼び掛けた。「平八郎|卑怯《ひけふ》だ。これへ出い。」
「待て」と、平八郎が離座敷《はなれざしき》の雨戸の内から叫んだ。
岡野等は暫《しばら》くためらつてゐた。
表口《おもてぐち》の内側にゐた菊地鉄平は、美吉屋の女房小供や奉公人の立《た》ち退《の》いた跡《あと》で暫《しばら》く待つてゐたが、板塀《いたべい》の戸口で手間の取れる様子を見て、鍵形《かぎがた》になつてゐる表の庭を、縁側の角《すみ》に附いて廻つて、戸口にゐる同心に、「もう踏み込んではどうだらう」と云つた。
「宜《よろ》しうございませう」と同心が答へた。
鉄平は戸口をつと這入《はひ》つて、正面にある離座敷《はなれざしき》の雨戸を半棒《はんぼう》で敲《たゝ》きこはした。戸の破れた所からは烟が出て、火薬の臭《にほひ》がした。
鉄平に続いて、同心、岡野、菊地弥六、松高が一しよに踏み込んで、残る雨戸を打ちこはした。
離座敷の正面には格之助の死骸らしいものが倒れてゐて、それに衣類を覆《おほ》ひ、間内《まうち》の障子をはづして、死骸の上を越させて、雨戸に立て掛け、それに火を附けてあつた。雨戸がこはれると、火の附いた障子が、燃《も》えながら庭へ落ちた。死骸らしい物のある奥の壁際《かべぎは》に、平八郎は鞘《さや》を払つた脇差《わきざし》を持つて立つてゐたが、踏み込んだ捕手《とりて》を見て、其|刃《やいば》を横に吭《のど》に突き立て、引き抜いて捕手の方へ投げた。
投げた脇差は、傍輩《はうばい》と一しよに半棒で火を払ひ除《の》けてゐる菊地弥六の頭を越し、襟《えり》から袖をかすつて、半棒に触れ、少し切り込んでけし飛んだ。弥六の襟、袖、手首には、灑《そゝ》ぎ掛けたやうに血が附いた。
火は次第に燃えひろがつた。捕手は皆|焔《ほのほ》を避けて、板塀の戸口から表庭《おもてには》へ出た。
弥六は脇差を投げ附けられたことを鉄平に話した。鉄平が「そんなら庭にあるだらう」と云つて、弥六を連れて戸口に往つて見ると、四五尺ばかり先に脇差は落ちてゐる。併《しか》し火が強くて取りに往くことが出来ない。そこへ最初案内に立つた同心が来て、「わたくし共の木刀には鍔《つば》がありますから、引つ掛けて掻《か》き寄せませう」と云つた。脇差は旨《うま》く掻き寄せられた。柄《つか》は茶糸巻《ちやいとまき》で、刃《は》が一尺八寸あつた。
搦手《からめて》は一歩先に西裏口《にしうらぐち》に来て、遠山、安立、芹沢、時田が東側に、斎藤と同心二人とが西側に並んで、真《ま》ん中《なか》に道を開《あ》け、逃げ出したら挟撃《はさみうち》にしようと待つてゐた。そのうち余り手間取《てまど》るので、安立、遠山、斎藤の三人が覗《のぞ》きに這入つた。離座敷には人声がしてゐる。又|持場《もちば》に帰つて暫く待つたが、誰も出て来ない。三人が又|覗《のぞ》きに這入ると、雨戸の隙から火焔の中に立つてゐる平八郎の坊主頭が見えた。そこで時田、芹沢と同心二人とを促して、一しよに半棒で雨戸を打ちこはした。併《しか》し火気が熾《さかん》なので、此手のものも這入ることが出来なかつた。
そこへ内山が来て、「もう跡《あと》は火を消せば好いのですから、消防方《せうばうかた》に任せてはいかがでせう」と云つた。
遠山が云つた。「いや。死骸がぢき手近にありますから、どうかしてあれを引き出すことにしませう。」
遠山はかう云つて、傍輩《はうばい》と一しよに死骸のある所へ水を打ち掛けてゐると、消防方《せうばうかた》が段々集つて来て、朝五つ過に火を消し止めた。
総年寄《そうどしより》今井が火消人足《ひけしにんそく》を指揮して、焼けた材木を取《と》り除《の》けさせた。其下から吉兵衛と云ふ人足が先《ま》づ格之助らしい死骸を引き出した。胸が刺《さ》し貫《つらぬ》いてある。平生歯が出てゐたが、其歯を剥《む》き出してゐる。次に平八郎らしい死骸が出た。これは吭《のど》を突いて俯伏《うつぶ》してゐる。今井は二つの死骸を水で洗はせた。平八郎の首は焼けふくらんで、肩に埋《うづ》まつたやうになつてゐるのを、頭を抱へて引き上げて、面体《めんてい》を見定めた。格之助は創《きず》の様子で、父の手に掛かつて死んだものと察せられた。今井は近所の三宅《みやけ》といふ医者の家から、駕籠《かご》を二|挺《ちやう》出させて、それに死骸を載せた。
二つの死骸は美吉屋夫婦と共に高原溜《たかはらたまり》へ送られた。道筋には見物人の山を築《きづ》いた。
十三、二月十九日後の三、評定
大塩平八郎が陰謀事件の評定《ひやうぢやう》は、六月七日に江戸の評定所《ひやうぢやうしよ》に命ぜられた。大岡|紀伊守忠愛《きいのかみたゞちか》の預つてゐた平山助次郎、大阪から護送して来た吉見九郎右衛門、同《おなじく》英太郎、河合|八十次郎《やそじらう》、大井正一郎、安田図書《やすだづしよ》、大西|与五郎《よごらう》、美吉屋《みよしや》五郎兵衛、同《おなじく》つね、其外《そのほか》西村利三郎を連れて伊勢から仙台に往き、江戸で利三郎が病死するまで世話をした黄檗《わうばく》の僧|剛嶽《がうがく》、江戸で西村を弟子にした橋本町一丁目の願人《ぐわんにん》冷月《れいげつ》、西村の死骸を葬《はうむ》つた浅草|遍照院《へんせうゐん》の所化《しよけ》尭周《げうしう》等が呼び出されて、七月十六日から取調《とりしらべ》が始まつた。次いで役人が大阪へも出張して、両方で取り調べた。罪案が定まつて上申せられたのは天保九年|閏《うるふ》四月八日で、宣告のあつたのは八月二十一日である。
平八郎、格之助、渡辺、瀬田、小泉、庄司、近藤、大井、深尾、茨田《いばらだ[#「いばらだ」はママ]》、高橋、父|柏岡《かしはをか》、倅柏岡、西村、宮脇、橋本、白井孝右衛門と暴動には加はらぬが連判をしてゐた摂津《せつゝ》森小路村《もりこうぢむら》の医師横山|文哉《ぶんさい》、同国|猪飼野村《ゐかひのむら》の百姓木村|司馬之助《しまのすけ》との十九人、それから返忠《かへりちゆう》をし掛けて遅疑《ちぎ》した弓奉行組《ゆみぶぎやうぐみ》同心小頭《どうしんこがしら》竹上《たけがみ》万太郎は磔《はりつけ》になつた。然《しか》るに九月十八日に鳶田《とびた》で刑の執行があつた時、生きてゐたのは竹上一|人《にん》である。他《た》の十九人は、自殺した平八郎、渡辺、瀬田、近藤、深尾、宮脇、病死した西村、人に殺された格之助、小泉を除き、彼《かの》江戸へ廻された大井迄|悉《こと/″\》く牢死したので、磔柱《はりつけばしら》には塩詰《しほづめ》の死骸を懸けた。中にも平八郎|父子《ふし》は焼けた死骸を塩詰にして懸けられたのである。西村は死骸が腐つてゐたので、墓を毀《こぼ》たれた。
松本、堀井、杉山、曾我《そが》、植松《うゑまつ》、大工作兵衛、猟師金助、美吉屋五郎兵衛、瀬田の中間《ちゆうげん》浅佶《あさきち》、深尾の募集に応じた尊延寺村《そんえんじむら》の百姓忠右衛門と無宿《むしゆく》新右衛門とは獄門《ごくもん》、暴動に加はらぬ与党の内、上田、白井|孝右衛門《かうゑもん》の甥《をひ》儀次郎《ぎじらう》、般若寺村《は
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