んにやじむら》の百姓|卯兵衛《うへゑ》は死罪、平八郎の妾《めかけ》ゆう、美吉屋の女房つね、大西与五郎と白井孝右衛門の倅《せがれ》で、穉《をさな》い時大塩の塾にゐたこともあり、父の陰謀の情を知つてゐた彦右衛門とは遠島《ゑんたう》、安田と杉山を剃髪させた同人《どうにん》の伯父、河内《かはち》大蓮寺《たいれんじ》の僧|正方《しやうはう》、西村の逃亡を助けた同人の姉婿《あねむこ》、堺の医師|寛輔《くわんぽ》の二|人《にん》とは追放になつた。併《しか》し此人々も杉山、上田、大西、倅白井の四人の外は、皆刑の執行前に牢死した。
密訴《みつそ》をした平山と父吉見とは取高《とりだか》の儘《まゝ》譜代席小普請入《ふだいせきこぶしんいり》になり、吉見英太郎、河合|八十次郎《やそじらう》は各《おの/\》銀五十枚を賜《たま》はつた。此中《このうち》で酒井|大和守忠嗣《やまとのかみたゞつぐ》へ預替《あづけがへ》になつてゐた平山は、番人の便所に立つた留守に詰所《つめしよ》の棚の刀箱《かたなばこ》から脇差を取り出して自殺した。
城代土井以下賞与を受けたものは十九人あつた。中にも坂本|鉉之助《げんのすけ》は鉄砲方《てつぱうかた》になつて、目見以上《めみえいじやう》の末席《ばつせき》に進められた。併し両町奉行には賞与がなかつた。
[#改頁]
附録
私が大塩平八郎の事を調べて見ようと思ひ立つたのは、鈴木本次郎君に一冊の写本を借りて見た時からの事である。写本は墨付《すみつき》二十七枚の美濃紙本で、表紙に「大阪大塩平八郎|万記録《よろづきろく》」と題してある。表紙の右肩には「川辺文庫」の印がある。川辺御楯《かはのべみたて》君が鈴木君に贈与したものださうである。
万記録《よろづきろく》の内容は、松平|遠江守《とほたふみのかみ》の家来稲垣|左近右衛門《さこんゑもん》と云ふ者が、見聞した事を数度に主家へ注進した文書である。松平遠江守とは摂津《せつつ》尼崎の城主松平|忠栄《ただなが》の事であらう。
万記録は所謂《いはゆる》風説が大部分を占めてゐるので、其中から史実を選《えら》み出さうとして見ると、獲ものは頗《すこぶる》乏しい。併《しか》し記事が穴だらけなだけに、私はそれに空想を刺戟《しげき》せられた。
そこで現に公にせられてゐる、大塩に関した書籍の中で、一番多くの史料を使つて、一番|精《くは》しく書いてある幸田成友《かうだしげとも》君の「大塩平八郎」を読み、同君の新小説に出した同題の記事を読んだ。そして古い大阪の地図や、「大阪城志」を参考して、伝へられた事実を時間と空間との経緯に配列して見た。
こんな事をしてゐる間、私の頭の中を稍《やゝ》久しく大塩平八郎と云ふ人物が占領してゐた。私は友人に逢ふ度《たび》に、平八郎の話をし出して、これに関係した史料や史論を聞かうとした。松岡寿《まつをかひさし》君は平八郎の塾にゐた宇津木矩之允と岡田良之進との事に就いて、在来の記録に無い事実を聞かせてくれ、又|三上参次《みかみさんじ》君、松本亦太郎《まつもとまたたらう》君は多少|纏《まとま》つた評論を聞せてくれた。
そのうち私の旧主人が建ててゐる菁々塾《せい/\じゆく》の創立記念会があつた。私は講話を頼まれて、外に何も考へてゐなかつた為め、大塩平八郎を題とした二時間ばかりの話をした。
そしてとうとう平八郎の事に就いて何か書かうと云ふ気になつた。
――――――――――――――――――――[#直線は中央に配置]
私は無遠慮に「大塩平八郎」と題した一篇を書いた。それは中央公論に載せられた。
平八郎の暴動は天保八年二月十九日である。私は史実に推測を加へて、此二月十九日と云ふ一日の間の出来事を書いたのである。史実として時刻の考へられるものは、概《おほむ》ね左の通である。
天保八年二月十九日
今の時刻 昔の時刻 事実
午前四時 暁七時(寅) 吉見英太郎、河合八十次郎の二少年吉見の父九郎右衛門の告発書を大阪西町奉行|堀利堅《ほりとしかた》に呈す。
六時 明六時(卯) 東町奉行|跡部良弼《あとべよしすけ》は代官二人に防備を命じ、大塩平八郎の母兄大西与五郎に平八郎を訪《と》ひて処決せしむることを嘱《しよく》す。
七時 朝五時(辰) 平八郎家宅に放火して事を挙ぐ。
十時 昼四時(巳) 跡部坂本|鉉之助《げんのすけ》に東町奉行所の防備を命ず。
十一時 昼四半時 城代|土井利位《どゐとしつら》城内の防備を命ず。
十二時 昼九時(午) 平八郎の隊北浜に至る。土井初めて城内を巡視す。
午後四時 夕七時(申) 平八郎等八軒屋に至りて船に上る。
六時 暮六時(酉) 平八郎に附随せる与党の一部上陸す。土井再び城内を巡視す。
時刻の知れてゐるこれだけの事実の前後と中間とに、伝へられてゐる一日間の一切の事実を盛り込んで、矛盾が生じなければ、それで一切の事実が正確だと云ふことは証明せられぬまでも、記載の信用は可なり高まるわけである。私は敢《あへ》てそれを試みた。そして其間に推測を逞《たくまし》くしたには相違ないが、余り暴力的な切盛《きりもり》や、人を馬鹿にした捏造《ねつざう》はしなかつた。
――――――――――――――――――――[#直線は中央に配置]
私の「大塩平八郎」は一日間の事を書くを主としてはゐたのだが、其一日の間に活動してゐる平八郎と周囲の人物とは、皆それぞれの過去を持つてゐる。記憶を持つてゐる。殊《こと》に外生活だけを臚列《ろれつ》するに甘んじないで、幾分か内生活に立ち入つて書くことになると、過去の記憶は比較的大きい影響を其人々の上に加へなくてはならない。さう云ふ場合を書く時、一目に見わたしの付くやうに、私は平八郎の年譜を作つた。原稿には次第に種々な事を書き入れたので、啻《たゞ》に些《いさゝか》の空白をも残さぬばかりでなく、文字と文字とが重なり合つて、他人が見てはなんの反古《ほご》だか分からぬやうになつた。ここにはそれを省略して載せる。
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大塩平八郎年譜
寛政五年癸丑(一七九三年) 大塩平八郎後素生る。幼名文之助。祖先は今川氏の族にして、波右衛門と云ふ。今川氏滅びて後、岡崎の徳川家康に仕ふ。小田原役に足立勘平を討ちて弓を賜はる。伊豆塚本に采地《さいち》を授けらる。大阪陣の時、越後柏崎の城を守る。後尾張侯に仕へ、嫡子をして家を襲《つ》がしむ。名古屋白壁町の大塩氏は其後なり。波右衛門の末子《ばつし》大阪に入り、町奉行組与力となる。天満橋筋長柄町東入四軒屋敷に住す。数世にして喜内と云ふものあり。其弟を助左衛門、其子を政之丞成余と云ふ。成余の子を平八郎敬高と云ふ。敬高の弟志摩出でて宮脇氏を冒《をか》す。敬高大西氏を娶《めと》る。文之助を生む。名は後素。字《あざな》は子起。通称は平八郎。中斎と号す。居る所を洗心洞と云ふ。其親族関係左の如し。(幸田)
[#ここで字下げ終わり]
橋本氏 某─┬─忠兵衛─┬─みね
│ │
└ゆう └松次郎
│
┌太一郎 │
│ │┌格之助
大西氏 某─┼与五郎─善之進 ├┤
│ │└いく
└女 │
│ │
│ ┌平八郎
├────┤
│ └忠之丞
大塩氏 ┌平八郎
┌喜内─政之丞─┤
某─┤ └志摩
└助左衛門 │
│┌発太郎
│├とく
│├いく
├┼新次郎
│├ゑい
│└辰三郎
│
宮脇氏 日向─┬りか
└むつ
是年平八郎後素の祖父成余四十二歳、父敬高二十四歳。
六年甲寅 平八郎二歳。成余四十三歳。敬高二十五歳。
七年乙卯 平八郎三歳。成余四十四歳。敬高二十六歳。
八年丙辰 平八郎四歳。成余四十五歳。敬高二十七歳。橋本忠兵衛生る。
九年丁巳 平八郎五歳。成余四十六歳。敬高二十八歳。
十年戊午 平八郎六歳。成余四十七歳。敬高二十九歳。大黒屋和市の女ひろ生る。後橋本氏ゆうと改名し、平八郎の妾《めかけ》となる。
十一年己未 平八郎七歳。成余四十八歳。五月十一日敬高三十歳にして歿す。平八郎の弟忠之丞生る。
十二年庚申 平八郎八歳。成余四十九歳。七月二十五日忠之丞歿す。九月二十日平八郎の母大西氏歿す。
享和元年辛酉 平八郎九歳。成余五十歳。宮脇りか生る。
二年壬戌 平八郎十歳。成余五十一歳。
三年癸亥 平八郎十一歳。成余五十二歳。
文化元年甲子 平八郎十二歳。成余五十三歳。
二年乙丑 平八郎十三歳。成余五十四歳。
三年丙寅 平八郎十四歳。此頃番方見習となる。成余五十五歳。
四年丁卯 平八郎十五歳。家譜を読みて志を立つ。成余五十六歳。
五年戊辰 平八郎十六歳。成余五十七歳。
六年己巳 平八郎十七歳。成余五十八歳。
七年庚午 平八郎十八歳。成余五十九歳。豊田貢斎藤伊織に離別せられ、水野軍記の徒弟となる。
八年辛未 平八郎十九歳。成余六十歳。
九年壬申 平八郎二十歳。成余六十一歳。
十年癸酉 平八郎二十一歳。始て学問す。成余六十二歳。西組与力|弓削《ゆげ》新右衛門地方役たり。
十一年甲戌 平八郎二十二歳。此頃竹上万太郎平八郎の門人となる。成余六十三歳。
十二年乙亥 平八郎二十三歳。成余六十四歳。
十三年丙子 平八郎二十四歳。成余六十五歳。京屋きぬ水野の徒弟となる。
十四年丁丑 平八郎二十五歳。成余六十六歳。
文政元年戊寅 六月二日成余六十七歳にして歿す。平八郎二十六歳にして番代を命ぜらる。妾ゆうを納《い》る。二十一歳。宮脇むつ生る。
二年己卯 平八郎二十七歳。
三年庚辰 平八郎二十八歳。目安役並証文役たり。十一月高井山城守実徳東町奉行となる。
四年辛巳 平八郎二十九歳。平山助次郎十六歳にして入門す。四月坂本鉉之助始て平八郎を訪ふ。橋本みね生る。
五年壬午 平八郎三十歳。
六年癸未 平八郎三十一歳。平八郎の叔父志摩宮脇氏の婿養子となり、りかに配せらる。是年大井正一郎入門す。水野軍記の妻そへ歿す。
七年甲申 平八郎三十二歳。宮脇発太郎生る。庄司義左衛門、堀井儀三郎入門す。庄司は二十七歳。水野軍記大阪木屋町に歿す。
八年乙酉 平八郎三十三歳。正月十四日洗心洞学舎東掲西掲を書す。白井孝右衛門三十七歳にして入門す。
九年丙戌 平八郎三十四歳。宮脇とく生る。
十年丁亥 平八郎三十五歳。吟味役たり。正月京屋さの、四月京屋きぬ、六月豊田貢、閏六月より七月に至り、水野軍記の関係者皆逮捕せらる。さの五十六歳、きぬ五十九歳、貢五十四歳、所謂邪宗門事件なり。
十一年戊子 平八郎三十六歳。吉見九郎右衛門三十八歳にして入門す。十月邪宗門事件評定所に移さる。
十二年己丑 平八郎三十七歳。三月弓削新右衛門糺弾事件あり。平八郎の妾ゆう薙髪《ちはつ》す。十二月五日邪宗門事件落着す。貢、きぬ、さの、外三人|磔《はりつけ》に処せらる。きぬ、さのは屍《しかばね》を磔す。是年宮脇いく生る。上田孝太郎入門す。木村司馬之助、横山文哉|交《まじはり》を訂《てい》す。
天保元年庚寅 平八郎三十八歳。三月破戒僧検挙事件あり。七月高井実徳西丸留守居に転ず。平八郎勤仕十三年にして暇を乞ひ、養子格之助番代を命ぜらる。格之助妾橋本みねを納る。九月平八郎名古屋の宗家を訪ひ、展墓す。頼襄《らいのぼる》序を作りて送る。十一月大阪に帰る。是年松本隣太夫、茨田軍次、白井儀次郎入門す。松本は甫《はじ》めて七歳なりき。
二年辛卯 平八郎三十九歳。父祖
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