うたが、只《たゞ》「いづれ免《まぬか》れぬ身ながら、少し考《かんがへ》がある」とばかり云つて、打ち明けない。そして白井と杉山とに、「お前方は心残《こゝろのこり》のないやうにして、身の始末を附けるが好い」と云つて、杉山には金五両を渡した。
一行は暫《しばら》く四つ橋の傍《そば》に立ち止まつてゐた。其時平八郎が「どこへ死所《しにどころ》を求めに往くにしても、大小《だいせう》を挿《さ》してゐては人目に掛かるから、一同刀を棄てるが好い」と云つて、先づ自分の刀を橋の上から水中に投げた。格之助|始《はじめ》、人々もこれに従つて刀を投げて、皆|脇差《わきざし》ばかりになつた。それから平八郎の黙つて歩く跡《あと》に附いて、一同|下寺町《したでらまち》まで出た。ここで白井と杉山とが、いつまで往つても名残《なごり》は尽きぬと云つて、暇乞《いとまごひ》をした。後に白井は杉山を連れて、河内国《かはちのくに》渋川郡《しぶかはごほり》大蓮寺村《たいれんじむら》の伯父の家に往き、鋏《はさみ》を借りて杉山と倶《とも》に髪を剪《そ》り、伏見へ出ようとする途中で捕はれた。
跡には平八郎父子と瀬田、渡辺、庄司との五人が残つた。そのうち下寺町《したでらまち》で火事を見に出てゐた人の群を避けようとするはずみに、庄司が平八郎等四人にはぐれた。後に庄司は天王寺村《てんわうじむら》で夜《よ》を明《あ》かして、平野郷《ひらのがう》から河内《かはち》、大和《やまと》を経て、自分と前後して大和路《やまとぢ》へ奔《はし》つた平八郎父子には出逢はず、大阪へ様子を見に帰る気になつて、奈良まで引き返して捕はれた。
庄司がはぐれて、平八郎父子と瀬田、渡辺との四人になつた時、下寺町の両側共寺ばかりの所を歩きながら、瀬田が重ねて平八郎に所存を問うた。平八郎は暫く黙つてゐて答へた。「いや先刻《せんこく》考《かんがへ》があるとは云つたが、別にかうと極《き》まつた事ではない。お前方二人は格別の間柄だから話して聞かせる。己《おれ》は今暫く世の成行《なりゆき》を見てゐようと思ふ。尤《もつと》も間断《かんだん》なく死ぬる覚悟をしてゐて、恥辱を受けるやうな事はせぬ」と云つたのである。これを聞いた瀬田と渡辺とは、「そんなら我々も是非共|御先途《ごせんと》を見届けます」と云つて、河内《かはち》から大和路《やまとぢ》へ奔《はし》ることを父子《ふし》に勧めた。四人の影は平野郷方角へ出る畑中道《はたなかみち》の闇《やみ》の裏《うち》に消えた。
十、城
けふの騒動が始《はじめ》て大阪の城代《じやうだい》土井の耳に入《い》つたのは、東町奉行|跡部《あとべ》が玉造口定番《たまつくりぐちぢやうばん》遠藤に加勢を請《こ》うた時の事である。土井は遠藤を以て東西両町奉行に出馬を言ひ付けた。丁度西町奉行堀が遠藤の所に来てゐたので、堀自分はすぐに沙汰《さた》を受け、それから東町奉行所に往つて、跡部に出馬の命を伝へることになつた。
土井は両町奉行に出馬を命じ、同時に目附中川半左衛門、犬塚太郎左衛門を陰謀の偵察、与党の逮捕に任じて置いて、昼四つ時《どき》に定番《ぢやうばん》、大番《おほばん》、加番《かばん》の面々を呼び集めた。
城代土井は下総《しもふさ》古河《こが》の城主である。其下に居る定番《ぢやうばん》二人《ににん》のうち、まだ着任しない京橋口定番|米倉《よねくら》は武蔵金沢の城主で、現に京橋口をも兼ね預かつてゐる玉造口定番遠藤は近江《あふみ》三上《みかみ》の城主である。定番の下には一年交代の大番頭《おほばんがしら》が二人ゐる。東大番頭は三河《みかは》新城《しんじやう》の菅沼織部正定忠《すがぬまおりべのしやうさだたゞ》、西大番頭は河内《かはち》狭山《さやま》の北条|遠江守氏春《とほたふみのかみうぢはる》である。以上は幕府の旗下で、定番の下には各与力三十騎、同心百人がゐる。大番頭の下には各|組頭《くみがしら》四人、組衆《くみしゆう》四十六人、与力十騎、同心二十人がゐる。京橋組、玉造組、東西大番を通算すると、上下の人数が定番二百六十四人、大番百六十二人、合計四百二十六人になる。これ丈《だけ》では守備が不足なので、幕府は外様《とざま》の大名に役知《やくち》一万石|宛《づゝ》を遣《や》つて加番《かばん》に取つてゐる。山里丸《やまざとまる》の一加番が越前大野の土井能登守利忠《どゐのとのかみとしたゞ》、中小屋《なかごや》の二加番が越後|与板《よいた》の井伊|右京亮直経《うきやうのすけなほつね》、青屋口《あをやぐち》の三加番が出羽《では》長瀞《ながとろ》の米津伊勢守政懿《よねづいせのかみまさよし》、雁木坂《がんきざか》の四加番が播磨《はりま》安志《あんじ》の小笠原|信濃守長武《しなのゝかみながたけ》である。加番は各|物頭《ものがしら》五人、徒目付《かちめつけ》六人、平士《ひらざむらひ》九人、徒《かち》六人、小頭《こがしら》七人、足軽《あしがる》二百二十四人を率《ひき》ゐて入城する。其内に小筒《こづゝ》六十|挺《ちやう》弓二十|張《はり》がある。又|棒突足軽《ぼうつきあしがる》が三十五人ゐる。四箇所の加番を積算すると、上下の人数が千三十四人になる。定番以下の此人数に城代の家来を加へると、城内には千五六百人の士卒がゐる。
定番、大番、加番の集まつた所で、土井は正《しやう》九つ時《どき》に城内を巡見するから、それまでに各《かく》持口《もちくち》を固めるやうにと言ひ付けた。それから士分のものは鎧櫃《よろひゞつ》を担《かつ》ぎ出す。具足奉行《ぐそくぶぎやう》上田五兵衛は具足を分配する。鉄砲奉行|石渡彦太夫《いしわたひこだいふ》は鉄砲玉薬《てつぱうたまくすり》を分配する。鍋釜《なべかま》の這入《はひ》つてゐた鎧櫃《よろひびつ[#「よろひびつ」はママ]》もあつた位で、兵器装具には用立たぬものが多く、城内は一方《ひとかた》ならぬ混雑であつた。
九つ時になると、両|大番頭《おほばんがしら》が先導になつて、土井は定番《ぢやうばん》、加番《かばん》の諸大名を連れて、城内を巡見した。門の数が三十三箇所、番所の数が四十三箇所あるのだから、随分手間が取れる。どこに往つて見ても、防備はまだ目も鼻も開いてゐない。土井は暮《くれ》六つ時《どき》に改めて巡見することにした。
二度目に巡見した時は、城内の士卒の外に、尼崎《あまがさき》、岸和田《きしわだ》、高槻《たかつき》、淀《よど》などから繰り出した兵が到着してゐる。
坤《ひつじさる》に開《ひら》いてゐる城の大手《おほて》は土井の持口《もちくち》である。詰所《つめしよ》は門内の北にある。門前には柵《さく》を結《ゆ》ひ、竹束《たけたば》を立て、土俵を築き上げて、大筒《おほづゝ》二門を据《す》ゑ、別に予備筒《よびづゝ》二門が置いてある。門内には番頭《ばんがしら》が控へ、門外北側には小筒を持つた足軽百人が北向に陣取つてゐる。南側には尼崎から来た松平|遠江守忠栄《とほたふみのかみたゞよし》の一番手三百三十余人が西向に陣取る。略《ほゞ》同数の二番手は後にここへ参着して、京橋口に遷《うつ》り、次いで跡部《あとべ》の要求によつて守口《もりぐち》、吹田《すゐた》へ往つた。後に郡山《こほりやま》の一二番手も大手に加はつた。
大手門内を、城代の詰所を過ぎて北へ行くと、西の丸である。西の丸の北、乾《いぬゐ》の角《すみ》に京橋口が開いてゐる。此口の定番の詰所は門内の東側にある。定番米津が着任してをらぬので、山里丸加番土井が守つてゐる。大筒の数は大手と同じである。門外には岸和田から来た岡部|内膳正長和《ないぜんのしやうながかず》の一番手二百余人、高槻の永井|飛騨守直与《ひだのかみなほとも》の手、其外《そのほか》淀の手が備へてゐる。
京橋口定番の詰所の東隣は焔硝蔵《えんせうぐら》である。焔硝蔵と艮《うしとら》の角《すみ》の青屋口との中間に、本丸に入る極楽橋《ごくらくばし》が掛かつてゐる。極楽橋から這入《はひ》つた所が山里で、其南が天主閣、其又南が御殿である。本丸には菅沼、北条の両大番頭が備へてゐる。
青屋口には門の南側に加番の詰所がある。此門は加番米津が守つて、中小屋加番《なかごやかばん》の井伊が遊軍としてこれに加はつてゐる。青屋口加番の詰所から南へ順次に、中小屋加番、雁木坂《がんきざか》加番、玉造口定番の詰所が並んでゐる。雁木坂加番小笠原は、自分の詰所の前の雁木坂に馬印《うまじるし》を立ててゐる。
玉造口|定番《ぢやうばん》の詰所は巽《たつみ》に開いてゐる。玉造口の北側である。此門は定番遠藤が守つてゐる。これに高槻の手が加はり、後には郡山《こほりやま》の三番手も同じ所に附けられた。玉造口と大手との間は、東が東大番、西が西大番の平常の詰所である。
土井の二度の巡見の外、中川、犬塚の両目附は城内|所々《しよ/\》を廻つて警戒し、又両町奉行所に出向いて情報を取つた。夜《よ》に入《い》つてからは、城の内外の持口々々《もちくち/″\》に篝火《かゞりび》を焚《た》き連《つら》ねて、炎焔《えん/\》天《てん》を焦《こが》すのであつた。跡部の役宅《やくたく》には伏見奉行|加納遠江守久儔《かなふとほたふみのかみひさとも》、堀の役宅には堺奉行|曲淵甲斐守景山《まがりぶちかひのかみけいざん》が、各与力同心を率ゐて繰り込んだ。又天王寺方面には岸和田から来た二番手千四百余人が陣を張つた。
目附中川、犬塚の手で陰謀の与党を逮捕しようと云ふ手配《てくばり》は、日暮頃から始まつたが、はか/″\しい働きも出来なかつた。吹田村《すゐたむら》で氏神《うぢがみ》の神主をしてゐる、平八郎の叔父宮脇|志摩《しま》の所へ捕手《とりて》の向つたのは翌二十日で、宮脇は切腹して溜池《ためいけ》に飛び込んだ。船手《ふなて》奉行の手で、川口の舟を調べはじめたのは、中一日置いた二十一日の晩からである。城の兵備を撤《てつ》したのも二十一日である。
朝五つ時に天満《てんま》から始まつた火事は、大塩の同勢が到る処に大筒を打ち掛け火を放つたので、風の余り無い日でありながら、思《おもひ》の外《ほか》にひろがつた。天満は東が川崎、西が知源寺《ちげんじ》、摂津国町《つのくにまち》、又二郎町《またじらうまち》、越後町、旅籠町《はたごまち》、南が大川、北が与力町を界《さかひ》とし、大手前から船場《せんば》へ掛けての市街は、谷町《たにまち》一丁目から三丁目までを東界《ひがしさかひ》、上大《かみおほ》みそ筋から下難波橋《しもなんばばし》筋までを西界《にしさかひ》、内本町《うちほんまち》、太郎左衛門町《たらうざゑもんまち》、西入町《にしいりまち》、豊後町《ぶんごまち》、安土町《あづちまち》、魚屋町《うをやまち》を南界《みなみさかひ》、大川、土佐堀川を北界《きたさかひ》として、一面の焦土となつた。本町橋《ほんまちばし》東詰で、西町奉行堀に分れて入城した東町奉行跡部は、火が大手近く燃《も》えて来たので、夕《ゆふ》七つ時に又坂本以下の与力同心を率ゐて火事場に出馬した。丁度|火消人足《ひけしにんそく》が谷町で火を食ひ止めようとしてゐる所であつたが、人数が少いのと一同疲れてゐるのとのために、暮《くれ》六つ半《はん》に谷町代官所に火の移るのを防ぐことが出来なかつた。鎮火したのは翌二十日の宵《よひ》五つ半である。町数《まちかず》で言へば天満組四十二町、北組五十九町、南組十一町、家数《いへかず》、竈数《かまどかず》で言へば、三千三百八十九軒、一万二千五百七十八戸が災《わざはひ》に罹《かゝ》つたのである。
十一、二月十九日の後の一、信貴越
大阪|兵燹《へいせん》の余焔《よえん》が城内の篝火《かがりび》と共に闇《やみ》を照《てら》し、番場《ばんば》の原には避難した病人産婦の呻吟《しんぎん》を聞く二月十九日の夜、平野郷《ひらのがう》のとある森蔭《もりかげ》に体《からだ》を寄せ合つて寒さを凌《しの》いでゐる四人があつた。これは夜《よ》の明《あ》けぬ間《ま》に河内《かはち》へ越さうとして、身も
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