りませい。」
「然《しか》らばお暇《いとま》しませう。」広瀬は町奉行所を出ようとした。
 そこへ京橋口を廻つて来た畑佐《はたさ》が落ち合つて、広瀬を引き止めて利害を説いた。広瀬はしぶりながら納得して引き返したが、暫《しばら》くして同心三十人を連れて来た。併《しか》し自分は矢張|雪駄穿《せつたばき》で、小筒《こづゝ》も何も持たなかつた。
 坂本は庭に出て、今工事を片付けて持口《もちくち》に附いた同心共を見張つてゐた。そこへ跡部《あとべ》は、相役《あひやく》堀を城代|土井大炊頭利位《どゐおほひのかみとしつら》の所へ報告に遣《や》つて置いて、書院から降りて来た。そして天満《てんま》の火事を見てゐた。強くはないが、方角の極《き》まらぬ風が折々吹くので、火は人家の立て込んでゐる西南《にしみなみ》の方へひろがつて行く。大塩の進む道筋を聞いた坂本が、「いかがでございませう、御出馬になりましては」と跡部に言つた。「されば」と云つて、跡部は火事を見てゐる。暫くして坂本が、「どうもなか/\こちらへは参りますまいが」と云つた。跡部は矢張「されば」と云つて、火事を見てゐる。

   七、船場

 大塩平八郎は天満与力町《てんまよりきまち》を西へ進みながら、平生|私曲《しきよく》のあるやうに思つた与力の家々に大筒を打ち込ませて、夫婦町《めうとまち》の四辻《よつつじ》から綿屋町《わたやまち》を南へ折れた。それから天満宮の側《そば》を通つて、天神橋に掛かつた。向うを見れば、もう天神橋はこはされてゐる。ここまで来るうちに、兼《かね》て天満に火事があつたら駆け附けてくれと言ひ付けてあつた近郷《きんがう》の者が寄つて来たり、途中で行き逢つて誘はれたりした者があるので、同勢三百人ばかりになつた。不意に馳《は》せ加はつたものの中に、砲術の心得《こゝろえ》のある梅田源左衛門《うめだげんざゑもん》と云ふ彦根浪人もあつた。
 平八郎は天神橋のこはされたのを見て、菅原町河岸《すがはらまちかし》を西に進んで、門樋橋《かどひばし》を渡り、樋上町河岸《ひかみまちかし》を難波橋《なんばばし》の袂《たもと》に出た。見れば天神橋をこはしてしまつて、こちらへ廻つた杣人足《そまにんそく》が、今難波橋の橋板を剥《は》がさうとしてゐる所である。「それ、渡れ」と云ふと、格之助が先に立つて橋に掛かつた。人足は抜身《ぬきみ》の鑓《やり》を見て、ばら/\と散つた。
 北浜二丁目の辻に立つて、平八郎は同勢の渡つてしまふのを待つた。そのうち時刻は正午になつた。
 方略の第二段に襲撃を加へることにしてある大阪富豪の家々は、北船場《きたせんば》に簇《むら》がつてゐるので、もう悉《ことごと》く指顧《しこ》の間《あひだ》にある。平八郎は倅《せがれ》格之助、瀬田以下の重立《おもだ》つた人々を呼んで、手筈《てはず》の通《とほり》に取り掛かれと命じた。北側の今橋筋《いまばしすぢ》には鴻池屋《こうのいけや》善右衛門、同《おなじく》庄兵衛、同善五郎、天王寺屋五兵衛、平野屋五兵衛等の大商人《おほしやうにん》がゐる。南側の高麗橋筋《かうらいばしすぢ》には三井、岩城桝屋《いはきますや》等の大店《おほみせ》がある。誰がどこに向ふと云ふこと、どう脅喝《けふかつ》してどう談判すると云ふこと、取り出した金銭米穀はどう取り扱ふと云ふこと抔《など》は、一々《いち/\》方略に取《と》り極《き》めてあつたので、ここでも為事《しごと》は自然に発展した。只|銭穀《せんこく》の取扱《とりあつかひ》だけは全く予定した所と相違して、雑人共《ざふにんども》は身に着《つけ》られる限《かぎり》の金銀を身に着けて、思ひ/\に立ち退《の》いてしまつた。鴻池本家《こうのいけほんけ》の外《ほか》は、大抵|金庫《かねぐら》を破壊せられたので、今橋筋には二分金《にぶきん》が道にばら蒔《ま》いてあつた。
 平八郎は難波橋《なんばばし[#「なんばばし」は底本では「なんぱばし」と誤記]》の南詰《みなみづめ》に床几《しやうぎ》を立てさせて、白井、橋本、其外|若党《わかたう》中間《ちゆうげん》を傍《そば》にをらせ、腰に附けて出た握飯《にぎりめし》を噛《か》みながら、砲声の轟《とゞろ》き渡り、火焔《くわえん》の燃《も》え上がるのを見てゐた。そして心の内には自分が兼て排斥した枯寂《こじやく》の空《くう》を感じてゐた。昼八つ時《どき》に平八郎は引上《ひきあげ》の太鼓を打たせた。それを聞いて寄り集まつたのはやう/\百五十人|許《ばか》りであつた。その重立《おもだ》つた人々の顔には、言ひ合せた様な失望の色がある。これは富豪を懲《こら》すことは出来たが、窮民を賑《にぎは》すことが出来ないからである。切角《せつかく》発散した鹿台《ろくたい》の財を、徒《いたづら》に烏合《うがふ》の衆の攫《つか》み取るに任せたからである。
 人々は黙つて平八郎の気色《けしき》を伺《うかが》つた。平八郎も黙つて人々の顔を見た。暫《しばら》くして瀬田が「まだ米店《こめみせ》が残つてゐましたな」と云つた。平八郎は夢を揺《ゆ》り覚《さま》されたやうに床几《しやうぎ》を起《た》つて、「好《よ》い、そんなら手配《てくばり》をせう」と云つた。そして残《のこり》の人数《にんず》を二手《ふたて》に分けて、自分達親子の一手は高麗橋《かうらいばし》を渡り、瀬田の一手は今橋《いまばし》を渡つて、内平野町《うちひらのまち》の米店《こめみせ》に向ふことにした。

   八、高麗橋、平野橋、淡路町

 土井の所へ報告に往つた堀が、東町奉行所に帰つて来て、跡部《あとべ》に土井の指図《さしづ》を伝へた。両町奉行に出馬せいと指図したのである。
「承知いたしました。そんなら拙者は手の者と玉造組《たまつくりぐみ》とを連れて出ることにいたしませう。」跡部はかう云つた儘《まゝ》すわつてゐた。
 堀は土井の機嫌の悪いのを見て来たので、気がせいてゐた。そこで席を離れるや否《いな》や、部下の与力同心を呼び集めて東町奉行所の門前に出た。そこには広瀬が京橋組の同心三十人に小筒《こづゝ》を持たせて来てゐた。
「どこの組か」と堀が声を掛けた。
「京橋組でござります」と広瀬が答へた。
「そんなら先手《さきて》に立て」と堀が号令した。
 同階級の坂本に対しては命令の筋道を論じた広瀬が、奉行の詞《ことば》を聞くと、一も二もなく領承した。そして鉄砲同心を引き纏《まと》めて、西組与力同心の前に立つた。
 堀の手は島町通《しまゝちどほり》を西へ御祓筋《おはらひすぢ》まで進んだ。丁度大塩|父子《ふし》の率《ひき》ゐた手が高麗橋に掛かつた時で、橋の上に白旗《しらはた》が見えた。
「あれを打たせい」と、堀が広瀬に言つた。
 広瀬が同心等に「打て」と云つた。
 同心等の持つてゐた三|文目《もんめ》五|分筒《ふんづゝ》が煎豆《いりまめ》のやうな音を立てた。
 堀の乗つてゐた馬が驚いて跳《は》ねた。堀はころりと馬から墜《お》ちた。それを見て同心等は「それ、お頭《かしら》が打たれた」と云つて、ぱつと散つた。堀は馬丁《ばてい》に馬を牽《ひ》かせて、御祓筋《おはらひすぢ》の会所《くわいしよ》に這入《はひ》つて休息した。部下を失つた広瀬は、暇乞《いとまごひ》をして京橋口に帰つて、同役馬場に此《この》顛末《てんまつ》を話して、一しよに東町奉行所前まで来て、大川《おほかは》を隔てて南北両方にひろがつて行く火事を見てゐた。
 御祓筋《おはらひすぢ》から高麗橋までは三丁余あるので、三|文目《もんめ》五|分筒《ふんづゝ》の射撃を、大塩の同勢《どうぜい》は知らずにしまつた。
 堀が出た跡《あと》の東町奉行所へ、玉造口へ往つた蒲生《がまふ》が大筒を受け取つて帰つた。蒲生は遠藤の所へ乗り付けて、大筒の事を言上《ごんじやう》すると、遠藤は岡|翁助《をうすけ》に当てて、平与力《ひらよりき》四人に大筒を持たせて、目附|中井半左衛門《なかゐはんざゑもん》方へ出せと云ふ達しをした。岡は柴田勘兵衛、石川彦兵衛に百|目筒《めづゝ》を一|挺《ちやう》宛《づゝ》、脇勝太郎、米倉倬次郎《よねくらたくじらう》に三十目筒一挺宛を持たせて中川方へ遣《や》つた。中川がをらぬので、四人は遠藤にことわつて、蒲生と一しよに東町奉行所へ来たのである。跡部《あとべ》は坂本が手の者と、今到着した与力四人とを併《あは》せて、玉造組の加勢与力七人、同心三十人を得たので、坂本を先に立てて出馬した。此一手は島町通を西へ進んで、同町二丁目の角から、内骨屋町筋《うちほねやまちすぢ》を南に折れ、それから内平野町《うちひらのまち》へ出て、再び西へ曲らうとした。
 此時大塩の同勢は、高麗橋を渡つた平八郎父子の手と、今橋を渡つた瀬田の手とが東横堀川《ひがしよこぼりがは》の東河岸《ひがしかし》に落ち合つて、南へ内平野町《うちひらのまち》まで押して行き、米店《こめみせ》数軒に火を掛けて平野橋《ひらのばし》の東詰《ひがしづめ》に引き上げてゐた。さうすると内骨屋町筋《うちほねやまちすぢ》から、神明《しんめい》の社《やしろ》の角をこつちへ曲がつて来る跡部《あとべ》の纏《まとひ》が見えた。二町足らず隔たつた纏《まとひ》を目当《めあて》に、格之助は木筒《きづゝ》を打たせた。
 跡部の手は停止した。与力|本多《ほんだ》や同心|山崎弥四郎《やまざきやしらう》が、坂本に「打ちませうか/\」と催促した。
 坂本は敵が見えぬので、「待て/\」と制しながら、神明《しんめい》の社《やしろ》の角に立つて見てゐると、やう/\烟の中に木筒《きづゝ》の口が現れた。「さあ、打て」と云つて、坂本は待ち構へた部下と一しよに小筒《こづゝ》をつるべかけた。
 烟が散つてから見れば、もう敵は退いて、道が橋向《はしむかう》まで開いてゐる。橋詰《はしづめ》近く進んで見ると、雑人《ざふにん》が一人打たれて死んでゐた。
 坂本は平野橋へ掛からうとしたが、東詰の両側の人家が焼けてゐるので、烟に噎《むせ》んで引き返した。そして始《はじめ》て敵に逢つて混乱してゐる跡部の手の者を押し分けながら、天神橋筋を少し南へ抜けて、豊後町《ぶんごまち》を西へ思案橋に出た。跡部は混乱の渦中に巻き込まれてとう/\落馬した。
 思案橋を渡つて、瓦町《かはらまち》を西へ進む坂本の跡には、本多、蒲生《がまふ》の外、同心山崎弥四郎、糟谷助蔵《かすやすけざう》等が切れ/″\に続いた。
 平野橋で跡部の手と衝突した大塩の同勢《どうぜい》は、又逃亡者が出たので百人|余《あまり》になり、浅手《あさで》を負《お》つた庄司に手当をして遣つて、平野橋の西詰から少し南へよぢれて、今|淡路町《あはぢまち》を西へ退く所である。
 北の淡路町を大塩の同勢が一歩先に西へ退くと、それと併行した南の瓦町通《かはらまちどほり》を坂本の手の者が一歩遅れて西へ進む。南北に通じた町を交叉《かうさ》する毎に、坂本は淡路町の方角を見ながら進む。一|丁目筋《ちやうめすぢ》と鍛冶屋町筋《かぢやまちすぢ》との交叉点では、もう敵が見えなかつた。
 堺筋《さかひすぢ》との交叉点に来た時、坂本はやう/\敵の砲車を認めた。黒羽織《くろばおり》を着た[#「着た」は底本では「来た」と誤記]大男がそれを挽《ひ》かせて西へ退かうとしてゐる所である。坂本は堺筋《さかひすぢ》西側の紙屋の戸口に紙荷《かみに》の積んであるのを小楯《こだて》に取つて、十|文目筒《もんめづゝ》で大筒方《おほづゝかた》らしい、彼《かの》黒羽織を狙《ねら》ふ。さうすると又《また》東側の用水桶の蔭から、大塩方の猟師金助が猟筒《れふづゝ》で坂本を狙ふ。坂本の背後《うしろ》にゐた本多が金助を見付けて、自分の小筒《こづゝ》で金助を狙ひながら、坂本に声を掛ける。併し二度まで呼んでも、坂本の耳に入らない。そのうち大筒方が少しづつ西へ歩くので、坂本は西側の人家に沿うて、十|間《けん》程《ほど》前へ出た。三人の筒は殆《ほとんど》同時に発射せられた。
 坂本の玉は大砲方《たいはうかた》の腰を打ち抜いた。金助の玉は坂本の陣笠《ぢんがさ》をかすつたが、坂本は只
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