》の磔《はりつけ》になる所や、両組与力《りやうくみよりき》弓削新右衛門《ゆげしんゑもん》の切腹する所や、大勢《おほぜい》の坊主が珠数繋《じゆずつなぎ》にせられる所を幻《まぼろし》に見ることがあつたが、それは皆間もなく事実になつた。そして事実になるまで、己《おれ》の胸には一度も疑《うたがひ》が萌《きざ》さなかつた。今度はどうもあの時とは違ふ。それにあの時は己の意図が先《ま》づ恣《ほしいまゝ》に動いて、外界《げかい》の事柄がそれに附随して来た。今度の事になつてからは、己は準備をしてゐる間、何時《いつ》でも用に立てられる左券《さけん》を握つてゐるやうに思つて、それを慰藉《ゐしや》にした丈《だけ》で、動《やゝ》もすれば其準備を永く準備の儘《まゝ》で置きたいやうな気がした。けふまでに事柄の捗《はかど》つて来たのは、事柄其物が自然に捗《はかど》つて来たのだと云つても好い。己《おれ》が陰謀を推して進めたのではなくて、陰謀が己を拉《らつ》して走つたのだと云つても好い。一体|此《この》終局はどうなり行くだらう。平八郎はかう思ひ続けた。
 平八郎が書斎で沈思してゐる間に、事柄は実際自然に捗《はかど》つて行く。屋敷中に立ち別れた与党の人々は、受持々々《うけもち/\》の為事《しごと》をする。時々書斎の入口まで来て、今宇津木を討《う》ち果《はた》したとか、今|奥庭《おくには》に積み上げた家財に火を掛けたとか、知らせるものがあるが、其度毎《そのたびごと》に平八郎は只《ただ》一目《ひとめ》そつちを見る丈《だけ》である。
 さていよ/\勢揃《せいぞろひ》をすることになつた。場所は兼《かね》て東照宮の境内《けいだい》を使ふことにしてある。そこへ出る時人々は始て非常口の錠前《ぢやうまへ》の開《あ》いてゐたのを知つた。行列の真《ま》つ先《さき》に押し立てたのは救民と書いた四|半《はん》の旗《はた》である。次に中に天照皇大神宮《てんせうくわうだいじんぐう》、右に湯武両聖王《たうぶりやうせいわう》、左に八幡大菩薩《はちまんだいぼさつ》と書いた旗、五七の桐《きり》に二つ引《びき》の旗を立てゝ行く。次に木筒《きづゝ》が二|挺《ちやう》行く。次は大井と庄司とで各《おの/\》小筒《こづゝ》を持つ。次に格之助が着込野袴《きごみのばかま》で、白木綿《しろもめん》の鉢巻《はちまき》を締《し》めて行く。下辻村《しもつじむら》の猟師《れふし》金助《きんすけ》がそれに引き添ふ。次に大筒《おほづゝ》が二挺と鑓《やり》を持つた雑人《ざふにん》とが行く。次に略《ほゞ》格之助と同じ支度の平八郎が、黒羅紗《くろらしや》の羽織、野袴《のばかま》で行く。茨田《いばらた》と杉山とが鑓《やり》を持つて左右に随ふ。若党《わかたう》曾我《そが》と中間《ちゆうげん》木八《きはち》、吉助《きちすけ》とが背後《うしろ》に附き添ふ。次に相図《あひづ》の太鼓が行く。平八郎の手には高橋、堀井、安田、松本等の与党がゐる。次は渡辺、志村、近藤、深尾、父柏岡等|重立《おもだ》つた人々で、特《こと》に平八郎に親しい白井や橋本も此中にゐる。一同|着込帯刀《きごみたいたう》で、多くは手鑓《てやり》を持つ。押《おさ》へは大筒《おほづゝ》一|挺《ちやう》を挽《ひ》かせ、小筒持《こづゝもち》の雑人《ざふにん》二十人を随へた瀬田で、傍《そば》に若党|植松周次《うゑまつしうじ》、中間|浅佶《あさきち》が附いてゐる。
 此《この》総人数《そうにんず》凡《およそ》百余人が屋敷に火を掛け、表側《おもてがは》の塀《へい》を押し倒して繰り出したのが、朝五つ時《どき》である。先《ま》づ主人の出勤した跡《あと》の、向屋敷《むかうやしき》朝岡の門に大筒の第一発を打ち込んで、天満橋筋《てんまばしすぢ》の長柄町《ながらまち》に出て、南へ源八町《げんぱちまち》まで進んで、与力町《よりきまち》を西へ折れた。これは城と東町奉行所とに接してゐる天満橋を避けて、迂回《うくわい》して船場《せんば》に向はうとするのである。

   六、坂本鉉之助

 東町奉行所で小泉を殺し、瀬田を取り逃がした所へ、堀が部下の与力《よりき》同心《どうしん》を随へて来た。跡部《あとべ》は堀と相談して、明《あけ》六つ時《どき》にやう/\三箇条の手配《てくばり》をした。鈴木町《すゞきまち》の代官|根本善左衛門《ねもとぜんざゑもん》に近郷《きんがう》の取締《とりしまり》を托したのが一つ。谷町《たにまち》の代官池田|岩之丞《いはのじよう》に天満《てんま》の東照宮、建国寺《けんこくじ》方面の防備を托したのが二つ。平八郎の母の兄、東組与力|大西与五郎《おほにしよごらう》が病気引《びやうきびき》をしてゐる所へ使《つかひ》を遣《や》つて、甥《をひ》平八郎に切腹させるか、刺し違へて死ぬるかのうちを選べと云はせたのが三つである。与五郎の養子善之進は父のために偵察しようとして長柄町《ながらまち》近くへ往くと、もう大塩の同勢《どうぜい》が繰り出すので、驚いて逃げ帰り、父と一しよに西の宮へ奔《はし》り、又|懼《おそ》れて大阪へ引き返ししなに、両刀を海に投げ込んだ。
 大西へ使《つかひ》を遣《や》つた跡《あと》で、跡部、堀の両奉行は更に相談して、両組の与力同心を合併した捕手《とりて》を大塩が屋敷へ出した。そのうち朝五つ近くなると、天満《てんま》に火の手が上がつて、間もなく砲声が聞えた。捕手《とりて》は所詮《しよせん》近寄れぬと云つて帰つた。
 両奉行は鉄砲奉行|石渡彦太夫《いしわたひこだいふ》、御手洗伊右衛門《みたらしいゑもん》に、鉄砲同心を借りに遣《や》つた。同心は二|人《にん》の部下を併《あは》せて四十人である。次にそれでは足らぬと思つて、玉造口定番《たまつくりぐちぢやうばん》遠藤|但馬守胤統《たぢまのかみたねをさ》に加勢を願つた。遠藤は公用人|畑佐秋之助《はたさあきのすけ》に命じて、玉造組与力で月番《つきばん》同心支配をしてゐる坂本|鉉之助《げんのすけ》を上屋敷《かみやしき》に呼び出した。
 坂本は荻野流《をぎのりう》の砲術者で、けさ丁打《ちやううち》をすると云つて、門人を城の東裏《ひがしうら》にある役宅の裏庭に集めてゐた。そのうち五つ頃になると、天満に火の手が上がつたので、急いで役宅から近い大番所《おほばんしよ》へ出た。そこに月番の玉造組|平与力《ひらよりき》本多為助《ほんだためすけ》、山寺《やまでら》三二郎、小島|鶴之丞《つるのじよう》が出てゐて、本多が天満の火事は大塩平八郎の所為《しよゐ》だと告げた。これは大塩の屋敷に出入《でいり》する猟師清五郎と云ふ者が、火事場に駆け附けて引き返し、同心支配岡|翁助《をうすけ》に告げたのを、岡が本多に話したのである。坂本はすぐに城の東裏にゐる同じ組の与力同心に総出仕《そうしゆつし》の用意を命じた。間もなく遠藤の総出仕の達しが来て、同時に坂本は上屋敷《かみやしき》へ呼ばれたのである。
 畑佐《はたさ》の伝へた遠藤の命令はかうである。同心支配一人、与力二人、同心三十人鉄砲を持つて東町奉行所へ出て来い。又同文の命令を京橋組へも伝達せいと云ふのである。坂本は承知の旨《むね》を答へて、上屋敷から大番所へ廻つて手配《てくばり》をした。同心支配は三人あるが、これは自分が出ることにし、小頭《こがしら》の与力二人には平与力《ひらよりき》蒲生熊次郎《がまふくまじらう》、本多|為助《ためすけ》を当て、同心三十人は自分と同役岡との組から十五人|宛《づゝ》出《だ》すことにした。集合の場所は土橋《どばし》と極めた。京橋組への伝達には、当番与力|脇《わき》勝太郎に書附を持たせて出して遣つた。
 手配《てくばり》が済んで、坂本は役宅《やくたく》に帰つた。そして火事装束《くわじしやうぞく》、草鞋掛《わらぢがけ》で、十文目筒《じふもんめづゝ》を持つて土橋《どばし》へ出向いた。蒲生《がまふ》と同心三十人とは揃つてゐた。本多はまだ来てゐない。集合を見に来てゐた畑佐《はたさ》は、跡部《あとべ》に二度催促せられて、京橋口へ廻《まは》つて東町奉行所に往くことにして、先へ帰つたのださうである。坂本は本多がために同心一|人《にん》を留《と》めて置いて、集合地を発した。堀端《ほりばた》を西へ、東町奉行所を指《さ》して進むうちに、跡部からの三度目の使者に行き合つた。本多と残して置いた同心とは途中で追ひ附いた。
 坂本が東町奉行所に来て見ると、畑佐はまだ来てゐない。東組与力朝岡|助之丞《すけのじよう》と西組与力近藤三右衛門とが応接して、大筒《おほづゝ》を用意して貰《もら》ひたいと云つた。坂本はそれまでの事には及ばぬと思ひ、又指図の区々《まち/\》なのを不平に思つたが、それでも馬一頭を借りて蒲生《がまふ》を乗せて、大筒を取り寄せさせに、玉造口|定番所《ぢやうばんしよ》へ遣つた。昼|四《よ》つ時《どき》に跡部が坂本を引見した。そして坂本を書院の庭に連れて出て、防備の相談をした。坂本は大川に面した北手《きたて》の展望を害する梅の木を伐《き》ること、島町《しままち》に面した南手の控柱《ひかへばしら》と松の木とに丸太を結び附けて、武者走《むしやばしり》の板をわたすことを建議した。混雑の中で、跡部の指図は少しも行はれない。坂本は部下の同心に工事を命じて、自分でそれを見張つてゐた。
 坂本が防備の工事をしてゐるうちに、跡部は大塩の一行が長柄町《ながらまち》から南へ迂廻《うくわい》したことを聞いた。そして杣人足《そまにんそく》の一組に天神橋《てんじんばし》と難波橋《なんばばし[#「なんばばし」は底本では「なんぱばし」と誤記]》との橋板をこはせと言ひ付けた。
 坂本の使者脇は京橋口へ往つて、同心支配|広瀬治左衛門《ひろせぢざゑもん》、馬場佐十郎《ばゝさじふらう》に遠藤の命令を伝達した。これは京橋口|定番《ぢやうばん》米津丹後守昌寿《よねづたんごのかみまさひさ》が、去年十一月に任命せられて、まだ到着せぬので、京橋口も遠藤が預《あづか》りになつてゐるからである。広瀬は伝達の書附を見て、首を傾けて何やら思案してゐたが、脇へはいづれ当方から出向いて承《うけたまは》らうと云つた。
 広瀬は雪駄穿《せつたばき》で東町奉行所に来て、坂本に逢つてかう云つた。「只今書面を拝見して、これへ出向いて参りましたが、原来《ぐわんらい》お互《たがひ》に御城警固《おんしろけいご》の役柄ではありませんか。それをお城の外で使はうと云ふ、遠藤殿の思召《おぼしめし》が分かり兼ねます。貴殿《きでん》はどう考へられますか。」
 坂本は目を※[#「目へん+爭」、第3水準1−88−85、196−1]《みは》つた。「成程《なるほど》自分の役柄は拙者《せつしや》も心得てをります。併《しか》し頭《かしら》遠藤殿の申付《まをしつけ》であつて見れば、縦《たと》ひ生駒山《いこまやま》を越してでも出張せんではなりますまい。御覧の通《とほり》拙者は打支度《うちしたく》をいたしてをります。」
「いや。それは頭《かしら》御自身が御出馬になることなら、拙者もどちらへでも出張しませう。我々ばかりがこんな所へ参つて働いては、町奉行の下知《げぢ》を受《うけ》るやうなわけで、体面にも係《かゝは》るではありませんか。先年|出水《しゆつすゐ》の時、城代松平伊豆守殿へ町奉行が出兵を願つたが、大切の御城警固《おんしろけいご》の者を貸すことは相成らぬと仰《おつし》やつたやうに聞いてをります。一応御一しよにことわつて見ようぢやありませんか。」
「それは御同意がなり兼ねます。頭《かしら》の申付《まをしつけ》なら、拙者は誰の下《した》にでも附いて働きます。その上|叛逆人《ほんぎやくにん》が起つた場合は出水《しゆつすゐ》などとは違ひます。貴殿がおことわりになるなら、どうぞお一人で上屋敷《かみやしき》へお出《いで》になつて下さい。」
「いや。さう云ふ御所存ですか。何事によらず両組相談の上で取り計らふ慣例でありますから申し出《だ》しました。さやうなら以後御相談は申しますまい。」
「已《や》むを得ません。いかやうとも御勝手になさ
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