軍家もなければ、朝廷もない。先生はそこまでは考へてをられぬらしい。」
「そんなら今|事《こと》を挙《あ》げるのですね。」
「さうだ。家には火を掛け、与《くみ》せぬものは切棄《きりす》てゝ起《た》つと云ふのだらう。併《しか》しあの物音のするのは奥から書斎の辺だ。まだ旧塾もある。講堂もある。こゝまで来るには少し暇《ひま》がある。まあ、聞き給《たま》へ。例の先生の流義だから、ゆうべも誰一人抗争するものはなかつた。己《おれ》は明朝御返事をすると云つて一時を糊塗《こと》した。若《も》し諫《いさ》める機会があつたら、諫めて陰謀を思ひ止《と》まらせよう。それが出来なかつたら、師となり弟子《ていし》となつたのが命《めい》だ、甘《あま》んじて死なうと決心した。そこで君だがね。」
岡田は又「はあ」と云つて耳を欹《そばだ》てた。
「君は中斎先生の弟子ではない。己《おれ》は君に此場を立ち退《の》いて貰《もら》ひたい。挙兵の時期が最も好《い》い。若《も》しどうすると問ふものがあつたら、お供《とも》をすると云ひ給《たま》へ。さう云つて置いて逃げるのだ。己《おれ》はゆうべ寝られぬから墓誌銘《ぼしめい》を自撰《じせん》した。それを今書いて君に遣《や》る。それから京都|東本願寺家《ひがしほんぐわんじけ》の粟津陸奥之助《あはづむつのすけ》と云ふものに、己の心血を灑《そゝ》いだ詩文稿《しぶんかう》が借してある。君は京都へ往つてそれを受け取つて、彦根にゐる兄|下総《しもふさ》の邸《やしき》へ往つて大林|権之進《ごんのしん》と云ふものに逢つて、詩文稿に墓誌銘を添へてわたしてくれ給へ。」かう云ひながら宇津木《うつぎ》はゆつくり起きて、机に靠《もた》れたが、宿墨《しゆくぼく》に筆を浸《ひた》して、有り合せた美濃紙《みのがみ》二枚に、一字の書損《しよそん》もなく腹藁《ふくかう》の文章を書いた。書き畢《をは》つて一読して、「さあ、これだ」と云つて岡田にわたした。
岡田は草稿を受け取りながら、「併《しか》し先生」と何やら言ひ出しさうにした。
宇津木は「ちよいと」と云ひ掛けて、便所へ立つた。
手に草稿を持つた儘《まゝ》、ぢつとして考へてゐる岡田の耳に、廊下一つを隔てた講堂の口あたりから人声が聞えた。
「先生の指図通《さしづどほり》、宇津木を遣《や》つてしまふのだ。君は出口で見張つてゐてくれ給へ。」聞き馴《な》れた門人|大井《おほゐ》の声である。玉造組与力《たまつくりぐみよりき》の倅《せがれ》で、名は正一郎《しやういちらう》と云ふ。三十五歳になる。
「宜《よろ》しい。しつかり遣《や》り給《たま》へ。」これは安田図書《やすだづしよ》の声である。外宮《げぐう》の御師《おし》で、三十三歳になる。
岡田はそつと立つて便所の戸口へ往つた。「殺しに来ます。」
「好《い》い。君早く逃げてくれ給へ。」
「併《しか》し。」
「早くせんと駄目だ。」
廊下を忍び寄る大井の足音がする。岡田は草稿を懐《ふところ》に捩《ね》ぢ込んで、机の所へ小鼠《こねずみ》のやうに走り戻つて、鉄の文鎮《ぶんちん》を手に持つた。そして跣足《はだし》で庭に飛び下りて、植込《うゑごみ》の中を潜《くゞ》つて、塀《へい》にぴつたり身を寄せた。
大井は抜刀《ばつたう》を手にして新塾に這入《はひ》つて来た。先づ寝所《しんじよ》の温《あたゝか》みを探《さぐ》つてあたりを見廻して、便所の口に来て、立ち留《と》まつた。暫《しばら》くして便所の戸に手を掛けて開けた。
中から無腰《むこし》の宇津木が、恬然《てんぜん》たる態度で出て来た。
大井は戸から手を放して一歩下がつた。そして刀を構《かま》へながら言分《いひわけ》らしく「先生のお指図《さしづ》だ」と云つた。
宇津木は「うん」と云つた切《きり》、棒立《ぼうだち》に立つてゐる。
大井は酔人《すゐじん》を虎が食《く》ひ兼《か》ねるやうに、良《やゝ》久しく立ち竦《すく》んでゐたが、やう/\思ひ切つて、「やつ」と声を掛けて真甲《まつかふ》を目掛《めが》けて切り下《おろ》した。宇津木が刀を受け取るやうに、俯向加減《うつむきかげん》になつたので、百会《ひやくゑ》の背後《うしろ》が縦《たて》に六寸程骨まで切れた。宇津木は其儘《そのまゝ》立つてゐる。大井は少し慌《あわ》てながら、二の太刀《たち》で宇津木の腹を刺した。刀は臍《ほぞ》の上から背へ抜けた。宇津木は縁側にぺたりとすわつた。大井は背後《うしろ》へ押し倒して喉《のど》を刺した。
塀際《へいぎは》にゐた岡田は、宇津木の最期《さいご》を見届けるや否《いな》や、塀に沿うて東照宮《とうせうぐう》の境内《けいだい》へ抜ける非常口に駆け附けた。そして錠前《ぢやうまへ》を文鎮《ぶんちん》で開《あ》けて、こつそり大塩の屋敷を出た。岡田は二十日に京都に立ち寄つて二十一日には彦根へ着いた。
五、門出
瀬田済之助《せたせいのすけ》が東町奉行所の危急を逃《のが》れて、大塩の屋敷へ駆け込んだのは、明《あけ》六つを少し過ぎた時であつた。
書斎の襖《ふすま》をあけて見ると、ゆうべ泊つた八人の与党《よたう》、その外《ほか》中船場町《なかせんばまち》の医師の倅《せがれ》で僅《わづか》に十四歳になる松本|隣太夫《りんたいふ》、天満《てんま》五丁目の商人阿部|長助《ちやうすけ》、摂津《せつつ》沢上江村《さはかみえむら》の百姓|上田孝太郎《うえだかうたらう》、河内《かはち》門真三番村の百姓|高橋九右衛門《たかはしくゑもん》、河内|弓削村《ゆげむら》の百姓|西村利三郎《にしむらりさぶらう》、河内|尊延寺村《そんえんじむら》の百姓|深尾才次郎《ふかをさいじらう》、播磨《はりま》西村の百姓|堀井儀三郎《ほりゐぎさぶらう》、近江《あふみ》小川村の医師|志村力之助《しむらりきのすけ》、大井、安田等に取り巻かれて、平八郎は茵《しとね》の上に端坐《たんざ》してゐた。
身《み》の丈《たけ》五尺五六寸の、面長《おもなが》な、色の白い男で、四十五歳にしては老人らしい所が無い。濃い、細い眉《まゆ》は弔《つ》つてゐるが、張《はり》の強い、鋭い目は眉程には弔つてゐない。広い額《ひたひ》に青筋《あをすぢ》がある。髷《まげ》は短く詰《つ》めて結《ゆ》つてゐる。月題《さかやき》は薄い。一度|喀血《かくけつ》したことがあつて、口の悪い男には青瓢箪《あをべうたん》と云はれたと云ふが、現《げ》にもと頷《うなづ》かれる。
「先生。御用心をなさい。手入れがあります。」駆け込んで、平八郎が前にすわりながら、瀬田は叫んだ。
「さうだらう。巡見《じゆんけん》が取止《とりやめ》になつたには、仔細《しさい》がなうてはならぬ。江戸へ立つた平山の所為《しよゐ》だ。」
「小泉は遣《や》られました。」
「さうか。」
目を見合せた一座の中には、同情のささやきが起つた。
平八郎は一座をずつと見わたした。「兼《かね》ての手筈《てはず》の通りに打ち立たう。棄て置き難《がた》いのは宇津木一|人《にん》だが、その処置は大井と安田に任せる。」
大井、安田の二|人《にん》はすぐに起《た》たうとした。
「まあ待て。打ち立つてからの順序は、只《たゞ》第一段を除いて、すぐに第二段に掛かるまでぢや。」第一段とは朝岡の家を襲《おそ》ふことで、第二段とは北船場《きたせんば》へ進むことである。これは方略《はうりやく》に極《き》めてあつたのである。
「さあ」と瀬田が声を掛けて一座を顧《かへり》みると、皆席を起つた。中で人夫の募集を受け合つてゐた柏岡《かしはをか》伝七と、檄文《げきぶん》を配る役になつてゐた上田とは屋敷を出て往つた。間もなく家財や、はづした建具《たてぐ》を奥庭《おくには》へ運び出す音がし出した。
平八郎は其儘《そのまゝ》端坐《たんざ》してゐる。そして熱した心の内を、此陰謀がいかに萌芽《はうが》し、いかに生長し、いかなる曲折を経《へ》て今に至つたと云ふことが夢のやうに往来する。平八郎はかう思ひ続けた。己《おれ》が自分の材幹《さいかん》と値遇《ちぐう》とによつて、吏胥《りしよ》として成《な》し遂《と》げられるだけの事を成し遂げた上で、身を引いた天保《てんぱう》元年は泰平であつた。民の休戚《きうせき》が米作《べいさく》の豊凶《ほうきよう》に繋《かゝ》つてゐる国では、豊年は泰平である。二年も豊作であつた。三年から気候が不順になつて、四年には東北の洪水のために、天明六七年以来の飢饉になつた。五年に稍《やゝ》常《つね》に復しさうに見えるかと思ふと、冬から六年の春に掛けて雨がない。六年には東北に螟虫《めいちゆう》が出来る。海嘯《つなみ》がある。とう/\去年は五月から雨続きで、冬のやうに寒く、秋は大風《たいふう》大水《たいすゐ》があり、東北を始《はじめ》として全国の不作になつた。己は隠居してから心を著述に専《もつぱら》にして、古本大学刮目《こほんだいがくくわつもく》、洗心洞剳記《せんしんどうさつき》、同|附録抄《ふろくせう》、儒門空虚聚語《じゆもんくうきよしゆうご》、孝経彙註《かうきやうゐちゆう》の刻本が次第に完成し、剳記《さつき》を富士山の石室《せきしつ》に蔵《ざう》し、又|足代権太夫弘訓《あじろごんたいふひろのり》の勧《すゝめ》によつて、宮崎、林崎の両文庫に納《をさ》めて、学者としての志《こゝろざし》をも遂げたのだが、連年の飢饉、賤民の困窮を、目を塞《ふさ》いで見ずにはをられなかつた。そしてそれに対する町奉行以下諸役人の処置に平《たひら》かなることが出来なかつた。賑恤《しんじゆつ》もする。造酒《ざうしゆ》に制限も加へる。併《しか》し民の疾苦《しつく》は増すばかりで減じはせぬ。殊《こと》に去年から与力内山を使つて東町奉行|跡部《あとべ》の遣《や》つてゐる為事《しごと》が気に食はぬ。幕命《ばくめい》によつて江戸へ米を廻漕《くわいさう》するのは好い。併《しか》し些《すこ》しの米を京都に輸《おく》ることをも拒《こば》んで、細民《さいみん》が大阪へ小買《こがひ》に出ると、捕縛《ほばく》するのは何事だ。己《おれ》は王道の大体を学んで、功利の末技を知らぬ。上《かみ》の驕奢《けうしや》と下《しも》の疲弊《ひへい》とがこれまでになツたのを見ては、己にも策の施すべきものが無い。併し理を以て推《お》せば、これが人世《じんせい》必然の勢《いきほひ》だとして旁看《ばうかん》するか、町奉行以下諸役人や市中の富豪に進んで救済の法を講ぜさせるか、諸役人を誅《ちゆう》し富豪を脅《おびやか》して其|私蓄《しちく》を散ずるかの三つより外《ほか》あるまい。己《おれ》は此不平に甘んじて旁看《ばうかん》してはをられぬ。己は諸役人や富豪が大阪のために謀《はか》つてくれようとも信ぜぬ。己はとう/\誅伐《ちゆうばつ》と脅迫《けふはく》とによつて事を済《な》さうと思ひ立つた。鹿台《ろくたい》の財を発するには、無道《むだう》の商《しやう》を滅《ほろぼ》さんではならぬと考へたのだ。己が意を此《こゝ》に決し、言《げん》を彼《かれ》に託《たく》し、格之助に丁打《ちやううち》をさせると称して、準備に取り掛つたのは、去年の秋であつた。それからは不平の事は日を逐《お》うて加はつても、準備の捗《はかど》つて行くのを顧みて、慰藉《ゐしや》を其中《そのうち》に求めてゐた。其間に半年立つた。さてけふになつて見れば、心に逡巡《しゆんじゆん》する怯《おくれ》もないが、又|踊躍《ようやく》する競《きほひ》もない。準備をしてゐる久しい間には、折々《をり/\》成功の時の光景が幻《まぼろし》のやうに目に浮かんで、地上に血を流す役人、脚下に頭《かうべ》を叩《たゝ》く金持、それから草木《さうもく》の風に靡《なび》くやうに来《きた》り附《ふ》する諸民が見えた。それが近頃はもうそんな幻《まぼろし》も見えなくなつた。己はまだ三十代で役を勤めてゐた頃、高井《たかゐ》殿に信任せられて、耶蘇《やそ》教徒を逮捕したり、奸吏《かんり》を糺弾《きうだん》したり、破戒僧を羅致《らち》したりしてゐながら、老婆|豊田貢《とよだみつぎ
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