心も疲れ果て、最早《もはや》一歩も進むことの出来なくなつた平八郎|父子《ふし》と瀬田、渡辺とである。
 四人は翌二十日に河内《かはち》の界《さかひ》に入《い》つて、食を求める外には人家に立ち寄らぬやうに心掛け、平野川に沿うて、間道《かんだう》を東へ急いだ。さて途中どこで夜を明かさうかと思つてゐるうち、夜なかから大風雨になつた。やう/\産土《うぶすな》の社《やしろ》を見付けて駈《か》け込んでゐると、暫く物を案じてゐた渡辺が、突然もう此先きは歩けさうにないから、先生の手足纏《てあしまとひ》にならぬやうにすると云つて、手早く脇差《わきざし》を抜いて腹に突き立てた。左の脇腹に三寸余り切先《きつさき》が這入《はひ》つたので、所詮《しよせん》助からぬと見極《みきは》めて、平八郎が介錯《かいしやく》した。渡辺は色の白い、少し歯の出た、温順篤実な男で、年齢は僅《わづか》に四十を越したばかりであつた。
 二十一日の暁《あかつき》になつても、大風雨は止《や》みさうな気色《けしき》もない。平八郎|父子《ふし》と瀬田とは、渡辺の死骸《しがい》を跡《あと》に残して、産土《うぶすな》の社《やしろ》を出た。土地の百
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