ぎ》を着て、裾《すそ》をからげ、袴《はかま》も股引《もゝひき》も着ずに、素足《すあし》に草鞋《わらぢ》を穿《は》いて、立派な拵《こしらへ》の大小《だいせう》を帯びてゐる。高麗橋、平野橋、淡路町の三度の衝突で、大塩方の死者は士分一人、雑人《ざふにん》二人に過ぎない。堀、跡部の両奉行の手には一人の死傷もない。双方から打つ玉は大抵頭の上を越して、堺筋《さかひすぢ》では町家《まちや》の看板が蜂《はち》の巣のやうに貫《つらぬ》かれ、檐口《のきぐち》の瓦が砕《くだ》かれてゐたのである。
 跡部《あとべ》は大筒方《おほづゝかた》の首を斬らせて、鑓先《やりさき》に貫《つらぬ》かせ、市中《しちゆう》を持ち歩かせた。後にこの戦死した唯一の士《さむらひ》が、途中から大塩の同勢《どうぜい》に加はつた浪人梅田だと云ふことが知れた。
 跡部が淡路町《あはぢまち》の辻にゐた所へ、堀が来合《きあは》せた。堀は御祓筋《おはらひすぢ》の会所《くわいしよ》で休息してゐると、一旦散つた与力《よりき》同心《どうしん》が又ぽつ/\寄つて来て、二十人ばかりになつた。そのうち跡部の手が平野橋《ひらのばし》の敵を打《う》ち退《しりぞ》
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