た門人|大井《おほゐ》の声である。玉造組与力《たまつくりぐみよりき》の倅《せがれ》で、名は正一郎《しやういちらう》と云ふ。三十五歳になる。
「宜《よろ》しい。しつかり遣《や》り給《たま》へ。」これは安田図書《やすだづしよ》の声である。外宮《げぐう》の御師《おし》で、三十三歳になる。
岡田はそつと立つて便所の戸口へ往つた。「殺しに来ます。」
「好《い》い。君早く逃げてくれ給へ。」
「併《しか》し。」
「早くせんと駄目だ。」
廊下を忍び寄る大井の足音がする。岡田は草稿を懐《ふところ》に捩《ね》ぢ込んで、机の所へ小鼠《こねずみ》のやうに走り戻つて、鉄の文鎮《ぶんちん》を手に持つた。そして跣足《はだし》で庭に飛び下りて、植込《うゑごみ》の中を潜《くゞ》つて、塀《へい》にぴつたり身を寄せた。
大井は抜刀《ばつたう》を手にして新塾に這入《はひ》つて来た。先づ寝所《しんじよ》の温《あたゝか》みを探《さぐ》つてあたりを見廻して、便所の口に来て、立ち留《と》まつた。暫《しばら》くして便所の戸に手を掛けて開けた。
中から無腰《むこし》の宇津木が、恬然《てんぜん》たる態度で出て来た。
大井は戸から
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