ん》した。それを今書いて君に遣《や》る。それから京都|東本願寺家《ひがしほんぐわんじけ》の粟津陸奥之助《あはづむつのすけ》と云ふものに、己の心血を灑《そゝ》いだ詩文稿《しぶんかう》が借してある。君は京都へ往つてそれを受け取つて、彦根にゐる兄|下総《しもふさ》の邸《やしき》へ往つて大林|権之進《ごんのしん》と云ふものに逢つて、詩文稿に墓誌銘を添へてわたしてくれ給へ。」かう云ひながら宇津木《うつぎ》はゆつくり起きて、机に靠《もた》れたが、宿墨《しゆくぼく》に筆を浸《ひた》して、有り合せた美濃紙《みのがみ》二枚に、一字の書損《しよそん》もなく腹藁《ふくかう》の文章を書いた。書き畢《をは》つて一読して、「さあ、これだ」と云つて岡田にわたした。
岡田は草稿を受け取りながら、「併《しか》し先生」と何やら言ひ出しさうにした。
宇津木は「ちよいと」と云ひ掛けて、便所へ立つた。
手に草稿を持つた儘《まゝ》、ぢつとして考へてゐる岡田の耳に、廊下一つを隔てた講堂の口あたりから人声が聞えた。
「先生の指図通《さしづどほり》、宇津木を遣《や》つてしまふのだ。君は出口で見張つてゐてくれ給へ。」聞き馴《な》れ
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