軍家もなければ、朝廷もない。先生はそこまでは考へてをられぬらしい。」
「そんなら今|事《こと》を挙《あ》げるのですね。」
「さうだ。家には火を掛け、与《くみ》せぬものは切棄《きりす》てゝ起《た》つと云ふのだらう。併《しか》しあの物音のするのは奥から書斎の辺だ。まだ旧塾もある。講堂もある。こゝまで来るには少し暇《ひま》がある。まあ、聞き給《たま》へ。例の先生の流義だから、ゆうべも誰一人抗争するものはなかつた。己《おれ》は明朝御返事をすると云つて一時を糊塗《こと》した。若《も》し諫《いさ》める機会があつたら、諫めて陰謀を思ひ止《と》まらせよう。それが出来なかつたら、師となり弟子《ていし》となつたのが命《めい》だ、甘《あま》んじて死なうと決心した。そこで君だがね。」
岡田は又「はあ」と云つて耳を欹《そばだ》てた。
「君は中斎先生の弟子ではない。己《おれ》は君に此場を立ち退《の》いて貰《もら》ひたい。挙兵の時期が最も好《い》い。若《も》しどうすると問ふものがあつたら、お供《とも》をすると云ひ給《たま》へ。さう云つて置いて逃げるのだ。己《おれ》はゆうべ寝られぬから墓誌銘《ぼしめい》を自撰《じせ
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