よたう》を召《め》し捕《と》られる時には、矢張《やはり》召し捕つて貰《もら》ひたい。或は其間《そのあひだ》に自殺するかも知れない。留置《とめおき》、預《あづ》けなどゝ云ふことにせられては、病体で凌《しの》ぎ兼《か》ねるから、それは罷《やめ》にして貰ひたいB倅英太郎は首領の立てゝゐる塾で、人質《ひとじち》のやうになつてゐて帰つて来ない。兎《と》に角《かく》自分と一族とを赦免《しやめん》して貰ひたい。それから西組|与力見習《よりきみならひ》に内山彦次郎《うちやまひこじらう》と云ふものがある。これは首領に嫉《にく》まれてゐるから、保護を加へて貰ひたいと云ふのである。
 読んでしまつて、堀は前から懐《いだ》いてゐた憂慮は別として、此訴状の筆者に対する一種の侮蔑《ぶべつ》の念を起さずにはゐられなかつた。形式に絡《から》まれた役人生涯に慣れてはゐても、成立してゐる秩序を維持するために、賞讃すべきものにしてある返忠《かへりちゆう》を、真《まこと》の忠誠だと看《み》ることは、生《うま》れ附いた人間の感情が許さない。その上自分の心中の私《わたくし》を去ることを難《かた》んずる人程|却《かへ》つて他人の意中の私《わたくし》を訐《あば》くに敏《びん》なるものである。九郎右衛門は一しよに召《め》し捕《と》られたいと云ふ。それは責《せめ》を引く潔《いさぎよ》い心ではなくて、与党を怖《おそ》れ、世間を憚《はゞか》る臆病である。又自殺するかも知れぬと云ふ。それは覚束《おぼつか》ない。自殺することが出来るなら、なぜ先《ま》づ自殺して後に訴状を貽《のこ》さうとはしない。又牢に入れてくれるなと云ふ。大阪の牢屋から生きて還《かへ》るものゝ少いのは公然の秘密だから、病体でなくても、入《い》らずに済《す》めば入《い》るまいとする筈である。横着者《わうちやくもの》だなとは思つたが、役馴《やくな》れた堀は、公儀《こうぎ》のお役に立つ返忠《かへりちゆう》のものを周章《しうしやう》の間にも非難しようとはしない。家老に言ひ付けて、少年二人を目通《めどほ》りへ出させた。
「吉見英太郎と云ふのはお前か。」
「はい。」怜悧《れいり》らしい目を見張つて、存外|怯《おく》れた様子もなく堀を仰《あふ》ぎ視《み》た。
「父九郎右衛門は病気で寝てをるのぢやな。」
「風邪《ふうじや》の跡《あと》で持病の疝痛《せんつう》痔疾《ぢしつ》が起りまして、行歩《ぎやうほ》が※[#「りっしんべん+(はこがまえ+夾)」、第3水準1−84−56、164−11]《かな》ひませぬ。」
「書付《かきつけ》にはお前は内へ帰られぬと書いてあるが、どうして帰られた。」
「父は帰られぬかも知れぬが、大変になる迄《まで》に脱《ぬ》けて出られるなら、出て来いと申し付けてをりました。さう申したのは十三日に見舞に参つた時の事でございます。それから一しよに塾にゐる河合|八十次郎《やそじらう》と相談いたしまして、昨晩|四《よ》つ時《どき》に抜けて帰りました。先生の所にはお客が大勢《おほぜい》ありまして、混雑いたしてゐましたので、出られたのでございます。それから。」英太郎は何か言ひさして口を噤《つぐ》んだ。
 堀は暫《しばら》く待つてゐたが、英太郎は黙つてゐる。「それからどういたした」と、堀が問うた。
「それから父が申しました。東の奉行所には瀬田と小泉とが当番で出てをりますから、それを申し上げいと申しました。」
「さうか。」東組与力瀬田|済之助《せいのすけ》、同小泉|淵次郎《えんじらう》の二人が連判《れんぱん》に加はつてゐると云ふことは、平山の口上《こうじやう》にもあつたのである。
 堀は八十次郎の方に向いた。「お前が河合八十次郎か。」
「はい。」頬《ほゝ》の円《まる》い英太郎と違つて、これは面長《おもなが》な少年であるが、同じやうに小気《こき》が利《き》いてゐて、臆《おく》する気色《けしき》は無い。
「お前の父はどういたしたのぢや。」
「母が申しました。先月の二十六日の晩であつたさうでございます。父は先生の所から帰つて、火箸《ひばし》で打擲《ちやうちやく》せられて残念だと申したさうでございます。あくる朝父は弟の謹之助《きんのすけ》を連れて、天満宮《てんまんぐう》へ参ると云つて出ましたが、それ切《きり》どちらへ参つたか、帰りません。」
「さうか。もう宜《よろ》しい。」かう云つて堀は中泉を顧みた。
「いかが取り計らひませう」と、中泉が主人の気色《けしき》を伺つた。
「番人を附けて留《と》め置け。」かう云つて置いて、堀は座を立つた。
 堀は居間に帰つて不安らしい様子をしてゐたが、忙《いそが》しげに手紙を書き出した。これは東町奉行に宛てて、当方にも訴人《そにん》があつた、当番の瀬田、小泉に油断せられるな、追附《おつつけ》参上すると書いたのである
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