。堀はそれを持たせて使《つかひ》を出した跡《あと》で、暫く腕組《うでぐみ》をして強《し》ひて気を落ち着けようとしてゐた。
 堀はきのふ跡部《あとべ》に陰謀者の方略《はうりやく》を聞いた。けふの巡見を取り止めたのはそのためである。然《しか》るに只《たゞ》三月と書いて日附をせぬ吉見の訴状には、その方略は書いてない。吉見が未明に倅《せがれ》を托訴《たくそ》に出したのを見ると方略を知らぬのではない。書き入れる暇《ひま》がなかつたのだらう。東町奉行所へ訴へた平山は、今月十五日に渡辺良左衛門が来て、十九日の手筈《てはず》を話し、翌十六日に同志一同が集まつた席で、首領が方略を打ち明けたと云つたさうである。それは跡部と自分とが与力朝岡の役宅《やくたく》に休息してゐる所へ襲《おそ》つて来《こ》ようと云ふのである。一体吉見の訴状にはなんと云つてあつたか、それに添へてある檄文《げきぶん》にはどう書いてあるか、好く見て置かうと堀は考へて、書類を袖《そで》の中から出した。
 堀は不安らしい目附《めつき》をして、二つの文書《ぶんしよ》をあちこち見競《みくら》べた。陰謀に対してどう云ふ手段を取らうと云ふ成案がないので、すぐに跡部《あとべ》の所へ往かずに書面を遣《や》つたが、安座して考へても、思案が纏《まと》まらない。併《しか》し何かせずにはゐられぬので、文書を調べ始めたのである。
 訴状には「御城《おんしろ》、御役所《おんやくしよ》、其外《そのほか》組屋敷等《くみやしきとう》火攻《ひぜめ》の謀《はかりごと》」と書いてある。檄文《げきぶん》には無道《むだう》の役人を誅《ちゆう》し、次に金持の町人共を懲《こら》すと云つてある。兎《と》に角《かく》恐ろしい陰謀である。昨晩跡部からの書状には、慥《たしか》な与力共の言分《いひぶん》によれば、さ程の事でないかも知れぬから、兼《かね》て打ち合せたやうに捕方《とりかた》を出すことは見合《みあは》せてくれと云つてあつた。それで少し安心して、こつちから吉田を出すことも控へて置いた。併し数人《すにん》の申分《まをしぶん》がかう符合して見れば、容易な事ではあるまい。跡部はどうする積《つもり》だらうか。手紙を遣《や》つたのだから、なんとか云つて来さうなものだ。こんな事を考へて、堀は時の移るのをも知らずにゐた。

   二、東町奉行所

 東町奉行所で、奉行|跡部山城守良弼《あとべやましろのかみよしすけ》が堀の手紙を受け取つたのは、明《あけ》六つ時《どき》頃であつた。
 大阪の東町奉行所は城の京橋口《きやうばしぐち》の外、京橋|通《どほり》と谷町《たにまち》との角屋敷《かどやしき》で、天満橋《てんまばし》の南詰《みなみづめ》東側にあつた。東は城、西は谷町の通である。南の島町通《しままちどほり》には街を隔てて籾蔵《もみぐら》がある。北は京橋通の河岸《かし》で、書院の庭から見れば、対岸天満組の人家が一目に見える。只《たゞ》庭の外囲《ぐわいゐ》に梅の立木《たちき》があつて、少し展望を遮《さへぎ》るだけである。
 跡部もきのふから堀と同じやうな心配をしてゐる。きのふの御用日にわざと落ち着いて、平常の事務を片附けて、それから平山の密訴《みつそ》した陰謀に対する処置を、堀と相談して別れた後、堀が吉田を呼んだやうに、跡部《あとべ》は東組与力の中で、あれかこれかと慥《たしか》なものを選《よ》り抜いて、とう/\荻野勘左衛門《をぎのかんざゑもん》、同人《どうにん》倅《せがれ》四郎助《しろすけ》、磯矢頼母《いそやたのも》の三人を呼び出した。頼母《たのも》と四郎助とは陰謀の首領を師と仰いでゐるものではあるが、半年以上使つてゐるうちに、その師弟の関係は読書の上ばかりで、師の家とは疎遠にしてゐるのが分かつた。「あの先生は学問はえらいが、肝積持《かんしやくもち》で困ります」などと、四郎助が云つたこともある。「そんな男か」と跡部が聞くと、「矢部様の前でお話をしてゐるうちに激《げき》して来て、六寸もある金頭《かながしら》を頭からめり/\と咬《か》ん食べたさうでございます」と云つた。それに此三人は半年の間跡部の言ひ付けた用事を、人一倍|念入《ねんいり》にしてゐる。そこを見込んで跡部が呼び出したのである。
 さて捕方《とりかた》の事を言ひ付けると、三人共思ひも掛けぬ様子で、良《やゝ》久しく顔を見合せて考へた上で云つた。平山が訴《うつたへ》はいかにも実事《じつじ》とは信ぜられない。例の肝積持《かんしやくもち》の放言を真《ま》に受けたのではあるまいか。お受《うけ》はいたすが、余所《よそ》ながら様子を見て、いよ/\実正《じつしやう》と知れてから手を着けたいと、折り入つて申し出た。後に跡部の手紙で此事を聞いた堀よりは、三人の態度を目《ま》のあたり見た跡部は、一層切実に忌々《いま
前へ 次へ
全32ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング