る。東町奉行|跡部山城守良弼《あとべやましろのかみよしすけ》も去年四月に現職に任ぜられて、七月に到着したのだから、まだ大阪には半年しかをらぬが、兎《と》に角《かく》一|日《じつ》の長《ちやう》があるので、堀は引《ひ》き廻《まは》して貰《もら》ふと云ふ風になつてゐる。町奉行になつて大阪に来たものは、初入式《しよにふしき》と云つて、前からゐる町奉行と一しよに三度に分けて市中を巡見する。初度《しよど》が北組《きたぐみ》、二度目が南組、三度目が天満組《てんまぐみ》である。北組、南組とは大手前《おほてまへ》は本町通《ほんまちどほり》北側、船場《せんば》は安土町通《あづちまちどほり》、西横堀《にしよこぼり》以西は神田町通《かんだまちどほり》を界《さかひ》にして、市中を二分してあるのである。天満組《てんまぐみ》とは北組の北界《きたざかひ》になつてゐる大川《おほかは》より更に北方に当る地域で、東は材木蔵《ざいもくぐら》から西は堂島《だうじま》の米市場《こめいちば》までの間、天満《てんま》の青物市場《あをものいちば》、天満宮《てんまんぐう》、総会所《そうくわいしよ》等を含んでゐる。北組が二百五十町、南組が二百六十一町、天満組が百九町ある。予定通にすると、けふは天満組を巡見して、最後に東照宮《とうせうぐう》附近の与力町《よりきまち》に出て、夕《ゆふ》七つ時《どき》には天満橋筋|長柄町《ながらまち》を東に入《い》る北側の、迎方《むかへかた》東組与力|朝岡助之丞《あさをかすけのじよう》が屋敷で休息するのであつた。迎方《むかへかた》とは新任の奉行を迎へに江戸に往つて、町与力《まちよりき》同心《どうしん》の総代として祝詞《しゆくし》を述べ、引き続いて其奉行の在勤中、手許《てもと》の用を達《た》す与力一|人《にん》同心二|人《にん》で、朝岡は其与力である。然《しか》るにきのふの御用日の朝、月番|跡部《あとべ》の東町奉行所へ立会《たちあひ》に往くと、其前日十七日の夜東組同心|平山助次郎《ひらやますけじらう》と云ふものの密訴《みつそ》の事を聞せられた。一大事と云ふ詞《ことば》が堀の耳を打つたのは沁栫sこのとき》が始《はじめ》であつた。それからはどんな事が起つて来るかと、前晩《ぜんばん》も殆《ほとんど》寝ずに心配してゐる。今|中泉《なかいづみ》が一大事の訴状を持つて二人の少年が来たと云ふのを聞くと、堀はすぐにあの事だなと思つた。堀のためには、中泉が英太郎の手から受け取つて出した書付《かきつけ》の内容は、未知《みち》の事の発明ではなくて、既知《きち》の事の証験《しようけん》として期待せられてゐるのである。
 堀は訴状を披見《ひけん》した。胸を跳《をど》らせながら最初から読んで行くと、果《はた》してきのふ跡部《あとべ》に聞いた、あの事である。陰謀《いんぼう》の首領《しゆりやう》、その与党《よたう》などの事は、前に聞いた所と格別の相違は無い。長文の訴状の末三分の二程は筆者九郎右衛門の身囲《みがこひ》である。堀が今少しく精《くは》しく知りたいと思ふやうな事は書いてなくて、読んでも読んでも、陰謀に対する九郎右衛門の立場、疑懼《ぎく》、愁訴《しうそ》である。きのふから気に掛かつてゐる所謂《いはゆる》一大事がこれからどう発展して行くだらうか、それが堀自身にどう影響するだらうかと、とつおいつ考へながら読むので、動《やゝ》もすれば二行も三行も読んでから、書いてある意味が少しも分かつてをらぬのに気が附く。はつと思つては又読み返す。やう/\読んでしまつて、堀の心の内には、きのふから知つてゐる事の外に、これ丈《だけ》の事が残つた。陰謀の与党の中で、筆者と東組与力|渡辺良左衛門《わたなべりやうざゑもん》、同組同心|河合郷左衛門《かはひがうざゑもん》との三人は首領を諫《いさ》めて陰謀を止《や》めさせようとした。併《しか》し首領が聴かぬ。そこで河合は逐電《ちくてん》した。筆者は正月三日|後《ご》に風を引いて持病が起つて寝てゐるので、渡辺を以《もつ》て首領にことわらせた。此体《このてい》では事を挙げられる日になつても所詮《しよせん》働く事は出来ぬから、切腹して詫《わ》びようと云つたのである。渡辺は首領の返事を伝へた。そんならゆる/\保養しろ。場合によつては立《た》ち退《の》けと云ふことである。これを伝へると同時に、渡辺は自分が是非なく首領と進退を共にすると決心したことを話した。次いで首領は倅《せがれ》と渡辺とを見舞によこした。筆者は病中やう/\の事で訴状を書いた。それを支配を受けてゐる東町奉行に出さうには、取次《とりつぎ》を頼むべき人が無い。そこで隔所《かくしよ》を見計《みはか》らつて托訴《たくそ》をする。筆者は自分と倅英太郎以下の血族との赦免《しやめん》を願ひたい。尤《もつと》も自分は与党《
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