しゆい》はなるべく一同に伝へることにしませう」と云つた。そして所々《しよ/\》に固まつてゐる身方《みかた》の残兵に首領《しゆりやう》の詞を伝達した。
 それを聞いて悄然《せうぜん》と手持無沙汰に立ち去るものもある。待ち構へたやうに持つてゐた鑓《やり》、負《お》つてゐた荷を棄てて、足早《あしはや》に逃げるものもある。大抵は此場を脱《ぬ》け出ることが出来たが、安田が一|人《にん》逃げおくれて、町家《まちや》に潜伏したために捕へられた。此時同勢の中《うち》に長持《ながもち》の宰領《さいりやう》をして来た大工作兵衛がゐたが、首領の詞を伝達せられた時、自分だけはどこまでも大塩|父子《ふし》の供がしたいと云つて居残《ゐのこ》つた。質樸《しつぼく》な職人|気質《かたぎ》から平八郎が企《くはだて》の私欲を離れた処に感心したので、強《し》ひて与党に入れられた怨《うらみ》を忘れて、生死を共にする気になつたのである。
 平八郎は格之助以下十二人と作兵衛とに取り巻かれて、淡路町《あはぢまち》二丁目の西端から半丁程東へ引き返して、隣まで火の移つてゐる北側の町家に踏み込んだ。そして北裏の東平野町《ひがしひらのまち》へ抜けた。坂本等が梅田を打ち倒してから、四辻に出るまで、大《だい》ぶ時が立つたので、この上下十四人は首尾好く迹《あと》を晦《くら》ますことが出来た。
 此時|北船場《きたせんば》の方角は、もう騒動が済んでから暫《しばら》く立つたので、焼けた家の址《あと》から青い煙が立ち昇つてゐるだけである。何物にか執着《しふぢやく》して、黒く焦《こ》げた柱、地に委《ゆだ》ねた瓦《かはら》のかけらの側《そば》を離れ兼ねてゐるやうな人、獣《けもの》の屍《かばね》の腐《くさ》る所に、鴉《からす》や野犬《のいぬ》の寄るやうに、何物をか捜《さが》し顔《がほ》にうろついてゐる人などが、互《たがひ》に顔を見合せぬやうにして行き違ふだけで、平八郎等の立《た》ち退《の》く邪魔をするものはない。八つ頃から空は次第に薄鼠色《うすねずみいろ》になつて来て、陰鬱《いんうつ》な、人の頭を押さへ附けるやうな気分が市中を支配してゐる。まだ鉄砲や鑓《やり》を持つてゐる十四人は、詞《ことば》もなく、稲妻形《いなづまがた》に焼跡《やけあと》の町を縫《ぬ》つて、影のやうに歩《あゆみ》を運びつつ東横堀川《ひがしよこぼりがは》の西河岸《にしかし》へ出た。途中で道に沿うて建て並べた土蔵の一つが焼け崩れて、壁の裾《すそ》だけ残つた中に、青い火がちよろ/\と燃《も》えてゐるのを、平八郎が足を停《と》めて見て、懐《ふところ》から巻物を出して焔《ほのほ》の中に投げた。これは陰謀の檄文《げきぶん》と軍令状とを書いた裏へ、今年の正月八日から二月十五日までの間に、同盟者に記名調印させた連判状《れんぱんじやう》であつた。
 十四人はたつた今七八十人の同勢を率《ひき》ゐて渡つた高麗橋《かうらいばし》を、殆《ほとんど》世を隔てたやうな思《おもひ》をして、同じ方向に渡つた。河岸《かし》に沿うて曲つて、天神橋詰《てんじんばしづめ》を過ぎ、八軒屋に出たのは七つ時であつた。ふと見れば、桟橋《さんばし》に一|艘《さう》の舟が繋《つな》いであつた。船頭が一人|艫《とも》の方に蹲《うづくま》つてゐる。土地のものが火事なんぞの時、荷物を積んで逃げる、屋形《やかた》のやうな、余り大きくない舟である。平八郎は一行に目食《めく》はせをして、此舟に飛び乗つた。跡《あと》から十三人がどや/\と乗込《のりこ》んだ。
「こら。舟を出せ。」かう叫んだのは瀬田である。
 不意を打たれた船頭は器械的に起《た》つて纜《ともづな》を解いた。
 舟が中流に出てから、庄司は持つてゐた十|文目筒《もんめづゝ》、其外の人々は手鑓《てやり》を水中に投げた。それから川風の寒いのに、皆|着込《きごみ》を脱《ぬ》いで、これも水中に投げた。
「どつちへでも好いから漕《こ》いでをれ。」瀬田はかう云つて、船頭に艪《ろ》を操《あやつ》らせた。火災に遭《あ》つたものの荷物を運び出す舟が、大川《おほかは》にはばら蒔《ま》いたやうに浮かんでゐる。平八郎等の舟がそれに雑《まじ》つて上《のぼ》つたり下《く》だつたりしてゐても、誰も見咎《みとが》めるものはない。
 併《しか》し器械的に働いてゐる船頭は、次第に醒覚《せいかく》して来て、どうにかして早くこの気味の悪い客を上陸させてしまはうと思つた。「旦那方《だんながた》どこへお上《あが》りなさいます。」
「黙つてをれ」と瀬田が叱つた。
 平八郎は側《そば》にゐた高橋に何やらささやいだ。高橋は懐中から金を二両出して船頭の手に握らせた。「いかい世話になるのう。お前の名はなんと云ふかい。」
「へえ。これは済みません。直吉と申します。」
 これからは船頭が素直
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