《たゞ》顔に風が当つたやうに感じただけであつた。本多の玉《たま》は全《まつた》く的《まと》をはづれた。
 坂本等は稍《やゝ》久しく敵と鉄砲を打ち合つてゐたが、敵がもう打たなくなつたので、用心しつゝ淡路町の四辻に出た。西の方を見れば、もう大塩の同勢は見えない。東の方を見れば、火が次第に燃《も》えて来る。四辻の辺《あたり》に敵の遺棄した品々を拾ひ集めたのが、百目筒《ひやくめづゝ》三挺《さんちやう》車台付《しやだいつき》、木筒《きづゝ》二挺《にちやう》内一挺車台付、小筒《こづゝ》三挺、其外|鑓《やり》、旗、太鼓、火薬|葛籠《つゞら》、具足櫃《ぐそくびつ》、長持《ながもち》等であつた。鑓《やり》のうち一本は、見知つたものがあつて平八郎の持鑓《もちやり》だと云つた。
 玉に中《あた》つて死んだものは、黒羽織《くろばおり》の大筒方の外には、淡路町の北側に雑人《ざふにん》が一人倒れてゐるだけである。大筒方は大筒の側に仰向《あふむけ》に倒れてゐた。身《み》の丈《たけ》六尺余の大男で、羅紗《らしや》の黒羽織の下には、黒羽二重《くろはぶたへ》紅裏《べにうら》の小袖《こそで》、八丈《はちぢやう》の下着《したぎ》を着て、裾《すそ》をからげ、袴《はかま》も股引《もゝひき》も着ずに、素足《すあし》に草鞋《わらぢ》を穿《は》いて、立派な拵《こしらへ》の大小《だいせう》を帯びてゐる。高麗橋、平野橋、淡路町の三度の衝突で、大塩方の死者は士分一人、雑人《ざふにん》二人に過ぎない。堀、跡部の両奉行の手には一人の死傷もない。双方から打つ玉は大抵頭の上を越して、堺筋《さかひすぢ》では町家《まちや》の看板が蜂《はち》の巣のやうに貫《つらぬ》かれ、檐口《のきぐち》の瓦が砕《くだ》かれてゐたのである。
 跡部《あとべ》は大筒方《おほづゝかた》の首を斬らせて、鑓先《やりさき》に貫《つらぬ》かせ、市中《しちゆう》を持ち歩かせた。後にこの戦死した唯一の士《さむらひ》が、途中から大塩の同勢《どうぜい》に加はつた浪人梅田だと云ふことが知れた。
 跡部が淡路町《あはぢまち》の辻にゐた所へ、堀が来合《きあは》せた。堀は御祓筋《おはらひすぢ》の会所《くわいしよ》で休息してゐると、一旦散つた与力《よりき》同心《どうしん》が又ぽつ/\寄つて来て、二十人ばかりになつた。そのうち跡部の手が平野橋《ひらのばし》の敵を打《う》ち退《しりぞ》けたので、堀は会所を出て、内平野町《うちひらのまち》で跡部に逢つた。そして二人相談した上、堀は跡部の手にゐた脇、石川、米倉の三人を借りて先手《さきて》を命じ、天神橋筋《てんじんばしすぢ》を南へ橋詰町《はしづめまち》迄出て、西に折れて本町橋《ほんまちばし》を渡つた。これは本町を西に進んで、迂廻《うくわい》して敵の退路を絶たうと云ふ計画であつた。併《しか》し一手《ひとて》のものが悉《ことごと》く跡《あと》へ/\とすざるので、脇等三人との間が切れる。人数もぽつ/\耗《へ》つて、本町堺筋《ほんまちさかひすぢ》では十三四人になつてしまふ。そのうち瓦町《かはらまち》と淡路町との間で鉄砲を打ち合ふのを見て、やう/\堺筋《さかひすぢ》を北へ、衝突のあつた処に駆け付けたのである。
 跡部は堀と一しよに淡路町を西へ踏み出して見たが、もう敵らしいものの影も見えない。そこで本町橋の東詰《ひがしづめ》まで引き上げて、二|人《にん》は袂《たもと》を分ち、堀は石川と米倉とを借りて、西町奉行所へ連れて帰り、跡部は城へ這入《はひ》つた。坂本、本多、蒲生《がまふ》、柴田、脇|並《ならび》に同心等は、大手前《おほてまへ》の番場《ばんば》で跡部に分れて、東町奉行所へ帰つた。

   九、八軒屋、新築地、下寺町

 梅田の挽《ひ》かせて行く大筒《おほづゝ》を、坂本が見付けた時、平八郎はまだ淡路町二丁目の往来の四辻に近い処に立ち止まつてゐた。同勢は見る/\耗《へ》つて、大筒《おほづゝ》の車を挽《ひ》く人足《にんそく》にも事を闕《か》くやうになつて来る。坂本等の銃声が聞えはじめてからは、同勢が殆《ほとんど》無節制の状態に陥《おちい》り掛かる。もう射撃をするにも、号令には依らずに、人々《ひと/″\》勝手に射撃する。平八郎は暫《しばら》くそれを見てゐたが、重立《おもだ》つた人々を呼び集めて、「もう働きもこれまでぢや、好く今まで踏みこたへてゐてくれた、銘々《めい/\》此場を立《た》ち退《の》いて、然《しか》るべく処決せられい」と云ひ渡した。
 集まつてゐた十二人は、格之助、白井、橋本、渡辺、瀬田、庄司、茨田《いばらた》、高橋、父|柏岡《かしはをか》、西村、杉山と瀬田の若党|植松《うゑまつ》とであつたが、平八郎の詞《ことば》を聞いて、皆顔を見合せて黙つてゐた。瀬田が進み出て、「我々はどこまでもお供をしますが、御趣意《ご
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