た門人|大井《おほゐ》の声である。玉造組与力《たまつくりぐみよりき》の倅《せがれ》で、名は正一郎《しやういちらう》と云ふ。三十五歳になる。
「宜《よろ》しい。しつかり遣《や》り給《たま》へ。」これは安田図書《やすだづしよ》の声である。外宮《げぐう》の御師《おし》で、三十三歳になる。
岡田はそつと立つて便所の戸口へ往つた。「殺しに来ます。」
「好《い》い。君早く逃げてくれ給へ。」
「併《しか》し。」
「早くせんと駄目だ。」
廊下を忍び寄る大井の足音がする。岡田は草稿を懐《ふところ》に捩《ね》ぢ込んで、机の所へ小鼠《こねずみ》のやうに走り戻つて、鉄の文鎮《ぶんちん》を手に持つた。そして跣足《はだし》で庭に飛び下りて、植込《うゑごみ》の中を潜《くゞ》つて、塀《へい》にぴつたり身を寄せた。
大井は抜刀《ばつたう》を手にして新塾に這入《はひ》つて来た。先づ寝所《しんじよ》の温《あたゝか》みを探《さぐ》つてあたりを見廻して、便所の口に来て、立ち留《と》まつた。暫《しばら》くして便所の戸に手を掛けて開けた。
中から無腰《むこし》の宇津木が、恬然《てんぜん》たる態度で出て来た。
大井は戸から手を放して一歩下がつた。そして刀を構《かま》へながら言分《いひわけ》らしく「先生のお指図《さしづ》だ」と云つた。
宇津木は「うん」と云つた切《きり》、棒立《ぼうだち》に立つてゐる。
大井は酔人《すゐじん》を虎が食《く》ひ兼《か》ねるやうに、良《やゝ》久しく立ち竦《すく》んでゐたが、やう/\思ひ切つて、「やつ」と声を掛けて真甲《まつかふ》を目掛《めが》けて切り下《おろ》した。宇津木が刀を受け取るやうに、俯向加減《うつむきかげん》になつたので、百会《ひやくゑ》の背後《うしろ》が縦《たて》に六寸程骨まで切れた。宇津木は其儘《そのまゝ》立つてゐる。大井は少し慌《あわ》てながら、二の太刀《たち》で宇津木の腹を刺した。刀は臍《ほぞ》の上から背へ抜けた。宇津木は縁側にぺたりとすわつた。大井は背後《うしろ》へ押し倒して喉《のど》を刺した。
塀際《へいぎは》にゐた岡田は、宇津木の最期《さいご》を見届けるや否《いな》や、塀に沿うて東照宮《とうせうぐう》の境内《けいだい》へ抜ける非常口に駆け附けた。そして錠前《ぢやうまへ》を文鎮《ぶんちん》で開《あ》けて、こつそり大塩の屋敷を出た。岡田は二十日に京都に立ち寄つて二十一日には彦根へ着いた。
五、門出
瀬田済之助《せたせいのすけ》が東町奉行所の危急を逃《のが》れて、大塩の屋敷へ駆け込んだのは、明《あけ》六つを少し過ぎた時であつた。
書斎の襖《ふすま》をあけて見ると、ゆうべ泊つた八人の与党《よたう》、その外《ほか》中船場町《なかせんばまち》の医師の倅《せがれ》で僅《わづか》に十四歳になる松本|隣太夫《りんたいふ》、天満《てんま》五丁目の商人阿部|長助《ちやうすけ》、摂津《せつつ》沢上江村《さはかみえむら》の百姓|上田孝太郎《うえだかうたらう》、河内《かはち》門真三番村の百姓|高橋九右衛門《たかはしくゑもん》、河内|弓削村《ゆげむら》の百姓|西村利三郎《にしむらりさぶらう》、河内|尊延寺村《そんえんじむら》の百姓|深尾才次郎《ふかをさいじらう》、播磨《はりま》西村の百姓|堀井儀三郎《ほりゐぎさぶらう》、近江《あふみ》小川村の医師|志村力之助《しむらりきのすけ》、大井、安田等に取り巻かれて、平八郎は茵《しとね》の上に端坐《たんざ》してゐた。
身《み》の丈《たけ》五尺五六寸の、面長《おもなが》な、色の白い男で、四十五歳にしては老人らしい所が無い。濃い、細い眉《まゆ》は弔《つ》つてゐるが、張《はり》の強い、鋭い目は眉程には弔つてゐない。広い額《ひたひ》に青筋《あをすぢ》がある。髷《まげ》は短く詰《つ》めて結《ゆ》つてゐる。月題《さかやき》は薄い。一度|喀血《かくけつ》したことがあつて、口の悪い男には青瓢箪《あをべうたん》と云はれたと云ふが、現《げ》にもと頷《うなづ》かれる。
「先生。御用心をなさい。手入れがあります。」駆け込んで、平八郎が前にすわりながら、瀬田は叫んだ。
「さうだらう。巡見《じゆんけん》が取止《とりやめ》になつたには、仔細《しさい》がなうてはならぬ。江戸へ立つた平山の所為《しよゐ》だ。」
「小泉は遣《や》られました。」
「さうか。」
目を見合せた一座の中には、同情のささやきが起つた。
平八郎は一座をずつと見わたした。「兼《かね》ての手筈《てはず》の通りに打ち立たう。棄て置き難《がた》いのは宇津木一|人《にん》だが、その処置は大井と安田に任せる。」
大井、安田の二|人《にん》はすぐに起《た》たうとした。
「まあ待て。打ち立つてからの順序は、只《たゞ》第一段を除いて、すぐに第二段に掛かるまでぢ
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