るかと思つて、頸《くび》を延《の》ばして見ると、先生はいつもの通《とほり》に着布団《きぶとん》の襟《えり》を頤《あご》の下に挿《はさ》むやうにして寝てゐる。物音は次第に劇《はげ》しくなる。岡田は心のはつきりすると共に、尋常でない此屋敷の現状が意識に上つて来た。
 岡田は跳《は》ね起《お》きた。宇津木の枕元《まくらもと》にゐざり寄つて、「先生」と声を掛けた。
 宇津木は黙つて目を大きく開いた。眠つてはゐなかつたのである。
「先生。えらい騒ぎでございますが。」
「うん。知つてをる。己《おれ》は余り人を信じ過ぎて、君をまで危地《きち》に置いた。こらへてくれ給《たま》へ。去年の秋からの丁打《ちやううち》の支度《したく》が、仰山《ぎやうさん》だとは己《おれ》も思つた。それに門人中の老輩《らうはい》数人と、塾生の一半とが、次第に我々と疎遠になつて、何か我々の知らぬ事を知つてをるらしい素振《そぶり》をする。それを怪《あや》しいとは己《おれ》も思つた。併《しか》し己はゆうべまで事の真相を看破することが出来なかつた。所《ところ》が君、ゆうべ塾生一同に申し渡すことがあると云つて呼んだ、あの時の事だね。己は代りに聞いて来て遣《や》ると云つて、君を残して置いて出席した。それから帰つて、格別な事でもないから、あした話すと云つて寝たのだがね、実はあの時例の老輩共と酒宴をしてゐた先生が、独《ひと》り席を起《た》つて我々の集まつてゐる所へ出て来て、かう云つたのだ。一大事であるが、お前方《まへがた》はどう身を処置するか承知したいと云つたのだ。己《おれ》は一大事とは何事か問うて見た。先生はざつとこんな事を説かれた。我々は平生|良知《りやうち》の学を攻《をさ》めてゐる。あれは根本の教《をしへ》だ。然《しか》るに今の天下の形勢は枝葉《しえふ》を病《や》んでゐる。民の疲弊《ひへい》は窮《きは》まつてゐる。草妨礙《くさばうがい》あらば、理《り》亦《また》宜《よろ》しく去《さ》るべしである。天下のために残賊《ざんぞく》を除かんではならぬと云ふのだ。そこで其残賊だがな。」
「はあ」と云つて、岡田は目を※[#「目へん+爭」、第3水準1−88−85、180−3]《みは》つた。
「先づ町奉行衆《まちぶぎやうしゆう》位《くらゐ》の所らしい。それがなんになる。我々は実に先生を見損《みそこな》つてをつたのだ。先生の眼中には将軍家もなければ、朝廷もない。先生はそこまでは考へてをられぬらしい。」
「そんなら今|事《こと》を挙《あ》げるのですね。」
「さうだ。家には火を掛け、与《くみ》せぬものは切棄《きりす》てゝ起《た》つと云ふのだらう。併《しか》しあの物音のするのは奥から書斎の辺だ。まだ旧塾もある。講堂もある。こゝまで来るには少し暇《ひま》がある。まあ、聞き給《たま》へ。例の先生の流義だから、ゆうべも誰一人抗争するものはなかつた。己《おれ》は明朝御返事をすると云つて一時を糊塗《こと》した。若《も》し諫《いさ》める機会があつたら、諫めて陰謀を思ひ止《と》まらせよう。それが出来なかつたら、師となり弟子《ていし》となつたのが命《めい》だ、甘《あま》んじて死なうと決心した。そこで君だがね。」
 岡田は又「はあ」と云つて耳を欹《そばだ》てた。
「君は中斎先生の弟子ではない。己《おれ》は君に此場を立ち退《の》いて貰《もら》ひたい。挙兵の時期が最も好《い》い。若《も》しどうすると問ふものがあつたら、お供《とも》をすると云ひ給《たま》へ。さう云つて置いて逃げるのだ。己《おれ》はゆうべ寝られぬから墓誌銘《ぼしめい》を自撰《じせん》した。それを今書いて君に遣《や》る。それから京都|東本願寺家《ひがしほんぐわんじけ》の粟津陸奥之助《あはづむつのすけ》と云ふものに、己の心血を灑《そゝ》いだ詩文稿《しぶんかう》が借してある。君は京都へ往つてそれを受け取つて、彦根にゐる兄|下総《しもふさ》の邸《やしき》へ往つて大林|権之進《ごんのしん》と云ふものに逢つて、詩文稿に墓誌銘を添へてわたしてくれ給へ。」かう云ひながら宇津木《うつぎ》はゆつくり起きて、机に靠《もた》れたが、宿墨《しゆくぼく》に筆を浸《ひた》して、有り合せた美濃紙《みのがみ》二枚に、一字の書損《しよそん》もなく腹藁《ふくかう》の文章を書いた。書き畢《をは》つて一読して、「さあ、これだ」と云つて岡田にわたした。
 岡田は草稿を受け取りながら、「併《しか》し先生」と何やら言ひ出しさうにした。
 宇津木は「ちよいと」と云ひ掛けて、便所へ立つた。
 手に草稿を持つた儘《まゝ》、ぢつとして考へてゐる岡田の耳に、廊下一つを隔てた講堂の口あたりから人声が聞えた。
「先生の指図通《さしづどほり》、宇津木を遣《や》つてしまふのだ。君は出口で見張つてゐてくれ給へ。」聞き馴《な》れ
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