や。」第一段とは朝岡の家を襲《おそ》ふことで、第二段とは北船場《きたせんば》へ進むことである。これは方略《はうりやく》に極《き》めてあつたのである。
「さあ」と瀬田が声を掛けて一座を顧《かへり》みると、皆席を起つた。中で人夫の募集を受け合つてゐた柏岡《かしはをか》伝七と、檄文《げきぶん》を配る役になつてゐた上田とは屋敷を出て往つた。間もなく家財や、はづした建具《たてぐ》を奥庭《おくには》へ運び出す音がし出した。
平八郎は其儘《そのまゝ》端坐《たんざ》してゐる。そして熱した心の内を、此陰謀がいかに萌芽《はうが》し、いかに生長し、いかなる曲折を経《へ》て今に至つたと云ふことが夢のやうに往来する。平八郎はかう思ひ続けた。己《おれ》が自分の材幹《さいかん》と値遇《ちぐう》とによつて、吏胥《りしよ》として成《な》し遂《と》げられるだけの事を成し遂げた上で、身を引いた天保《てんぱう》元年は泰平であつた。民の休戚《きうせき》が米作《べいさく》の豊凶《ほうきよう》に繋《かゝ》つてゐる国では、豊年は泰平である。二年も豊作であつた。三年から気候が不順になつて、四年には東北の洪水のために、天明六七年以来の飢饉になつた。五年に稍《やゝ》常《つね》に復しさうに見えるかと思ふと、冬から六年の春に掛けて雨がない。六年には東北に螟虫《めいちゆう》が出来る。海嘯《つなみ》がある。とう/\去年は五月から雨続きで、冬のやうに寒く、秋は大風《たいふう》大水《たいすゐ》があり、東北を始《はじめ》として全国の不作になつた。己は隠居してから心を著述に専《もつぱら》にして、古本大学刮目《こほんだいがくくわつもく》、洗心洞剳記《せんしんどうさつき》、同|附録抄《ふろくせう》、儒門空虚聚語《じゆもんくうきよしゆうご》、孝経彙註《かうきやうゐちゆう》の刻本が次第に完成し、剳記《さつき》を富士山の石室《せきしつ》に蔵《ざう》し、又|足代権太夫弘訓《あじろごんたいふひろのり》の勧《すゝめ》によつて、宮崎、林崎の両文庫に納《をさ》めて、学者としての志《こゝろざし》をも遂げたのだが、連年の飢饉、賤民の困窮を、目を塞《ふさ》いで見ずにはをられなかつた。そしてそれに対する町奉行以下諸役人の処置に平《たひら》かなることが出来なかつた。賑恤《しんじゆつ》もする。造酒《ざうしゆ》に制限も加へる。併《しか》し民の疾苦《しつく》は増すばかりで減じはせぬ。殊《こと》に去年から与力内山を使つて東町奉行|跡部《あとべ》の遣《や》つてゐる為事《しごと》が気に食はぬ。幕命《ばくめい》によつて江戸へ米を廻漕《くわいさう》するのは好い。併《しか》し些《すこ》しの米を京都に輸《おく》ることをも拒《こば》んで、細民《さいみん》が大阪へ小買《こがひ》に出ると、捕縛《ほばく》するのは何事だ。己《おれ》は王道の大体を学んで、功利の末技を知らぬ。上《かみ》の驕奢《けうしや》と下《しも》の疲弊《ひへい》とがこれまでになツたのを見ては、己にも策の施すべきものが無い。併し理を以て推《お》せば、これが人世《じんせい》必然の勢《いきほひ》だとして旁看《ばうかん》するか、町奉行以下諸役人や市中の富豪に進んで救済の法を講ぜさせるか、諸役人を誅《ちゆう》し富豪を脅《おびやか》して其|私蓄《しちく》を散ずるかの三つより外《ほか》あるまい。己《おれ》は此不平に甘んじて旁看《ばうかん》してはをられぬ。己は諸役人や富豪が大阪のために謀《はか》つてくれようとも信ぜぬ。己はとう/\誅伐《ちゆうばつ》と脅迫《けふはく》とによつて事を済《な》さうと思ひ立つた。鹿台《ろくたい》の財を発するには、無道《むだう》の商《しやう》を滅《ほろぼ》さんではならぬと考へたのだ。己が意を此《こゝ》に決し、言《げん》を彼《かれ》に託《たく》し、格之助に丁打《ちやううち》をさせると称して、準備に取り掛つたのは、去年の秋であつた。それからは不平の事は日を逐《お》うて加はつても、準備の捗《はかど》つて行くのを顧みて、慰藉《ゐしや》を其中《そのうち》に求めてゐた。其間に半年立つた。さてけふになつて見れば、心に逡巡《しゆんじゆん》する怯《おくれ》もないが、又|踊躍《ようやく》する競《きほひ》もない。準備をしてゐる久しい間には、折々《をり/\》成功の時の光景が幻《まぼろし》のやうに目に浮かんで、地上に血を流す役人、脚下に頭《かうべ》を叩《たゝ》く金持、それから草木《さうもく》の風に靡《なび》くやうに来《きた》り附《ふ》する諸民が見えた。それが近頃はもうそんな幻《まぼろし》も見えなくなつた。己はまだ三十代で役を勤めてゐた頃、高井《たかゐ》殿に信任せられて、耶蘇《やそ》教徒を逮捕したり、奸吏《かんり》を糺弾《きうだん》したり、破戒僧を羅致《らち》したりしてゐながら、老婆|豊田貢《とよだみつぎ
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