奉行所の北側の塀《へい》を乗り越した。そして天満橋《てんまばし》を北へ渡つて、陰謀の首領|大塩平八郎《おほしほへいはちらう》の家へ奔《はし》つた。
三、四軒屋敷
天満橋筋《てんまばしすぢ》長柄町《ながらまち》を東に入《い》つて、角《かど》から二軒目の南側で、所謂《いはゆる》四軒屋敷の中に、東組与力|大塩格之助《おほしほかくのすけ》の役宅《やくたく》がある。主人は今年二十七歳で、同じ組与力西田|青太夫《あをたいふ》の弟に生れたのを、養父平八郎が貰《もら》つて置いて、七年前にお暇《いとま》になる時、番代《ばんだい》に立たせたのである。併《しか》し此家では当主は一向当主らしくなく、今年四十五歳になる隠居平八郎が万事の指図をしてゐる。
玄関を上がつて右が旧塾《きうじゆく》と云つて、ここには平八郎が隠居する数年前から、その学風を慕《した》つて寄宿したものがある。左は講堂で、読礼堂《どくれいだう》と云ふ※[#「はこがまえ+扁」、第4水準2−3−48、173−1]額《へんがく》が懸けてある。その東隣が後に他家《たけ》を買ひ潰《つぶ》して広げた新塾《しんじゆく》である。講堂の背後《うしろ》が平八郎の書斎で、中斎《ちゆうさい》と名づけてある。それから奥、東照宮《とうせうぐう》の境内《けいだい》の方へ向いた部屋々々《へや/″\》が家内《かない》のものの居所《ゐどころ》で、食事の時などに集まる広間には、鏡中看花館《きやうちゆうかんくわくわん》と云ふ※[#「はこがまえ+扁」、第4水準2−3−48、173−4]額《へんがく》が懸《か》かつてゐる。これだけの建物の内に起臥《きぐわ》してゐるものは、家族でも学生でも、悉《ことごと》く平八郎が独裁の杖《つゑ》の下《もと》に項《うなじ》を屈してゐる。当主格之助などは、旧塾に九人、新塾に十余人ゐる平《ひら》の学生に比べて、殆《ほとんど》何等《なにら》の特権をも有してをらぬのである。
東町奉行所で白刃《はくじん》の下《した》を脱《のが》れて、瀬田|済之助《せいのすけ》が此屋敷に駆け込んで来た時の屋敷は、決して此出来事を青天《せいてん》の霹靂《へきれき》として聞くやうな、平穏無事の光景《ありさま》ではなかつた。家内中《かないぢゆう》の女子供《をんなこども》はもう十日前に悉《ことごと》く立《た》ち退《の》かせてある。平八郎が二十六歳で番代《ばんだい》に出た年に雇つた妾《めかけ》、曾根崎新地《そねざきしんち》の茶屋大黒屋|和市《わいち》の娘ひろ、後の名ゆうが四十歳、七年前に格之助が十九歳で番代に出た時に雇つた妾、般若寺村《はんにやじむら》の庄屋橋本忠兵衛の娘みねが十七歳、平八郎が叔父宮脇|志摩《しま》の二女を五年前に養女にしたいくが九歳、大塩家にゐた女は此三人で、それに去年の暮にみねの生んだ弓太郎《ゆみたらう》を附け、女中りつを連れさせて、ゆうがためには義兄、みねがためには実父に当る般若寺村の橋本方へ立《た》ち退《の》かせたのである。
女子供がをらぬばかりでは無い。屋敷は近頃急に殺風景になつてゐる。それは兼《かね》て門人の籍にゐる兵庫|西出町《にしでまち》の柴屋長太夫《しばやちやうだいふ》、其外《そのほか》縁故のある商人に買つて納めさせ、又学生が失錯《しつさく》をする度《たび》に、科料の代《かはり》に父兄に買つて納めさせた書籍が、玄関から講堂、書斎へ掛けて、二三段に積んだ本箱の中にあつたのに、今月に入《い》つてからそれを悉《ことごと》く運び出させ、土蔵にあつた一切経《いつさいきやう》などをさへそれに加へて、書店|河内屋喜兵衛《かはちやきへゑ》、同|新次郎《しんじらう》、同|記一兵衛《きいちべゑ》、同|茂兵衛《もへゑ》の四人の手で銀に換へさせ、飢饉続きのために難儀《なんぎ》する人民に施《ほどこ》すのだと云つて、安堂寺町《あんだうじまち》五丁目の本屋会所《ほんやくわいしよ》で、親類や門下生に縁故のある凡《およそ》三十三町村のもの一万軒に、一|軒《けん》一|朱《しゆ》の割《わり》を以《もつ》て配つた。質素な家の唯一の装飾になつてゐた書籍が無くなつたので、家《うち》はがらんとしてしまつた。
今一つ此家の外貌が傷《きずつ》けられてゐるのは、職人を入れて兵器弾薬を製造させてゐるからである。町与力《まちよりき》は武芸を以て奉公してゐる上に、隠居平八郎は玉造組《たまつくりぐみ》与力|柴田勘兵衛《しばたかんべゑ》の門人で、佐分利流《さぶりりう》の槍《やり》を使ふ。当主格之助は同組同心故人|藤重孫三郎《ふぢしげまごさぶらう》の門人で、中島流の大筒《おほづゝ》を打つ。中にも砲術家は大筒をも貯《たくは》へ火薬をも製する習《ならひ》ではあるが、此家では夫《それ》が格別に盛《さかん》になつてゐる。去年九月の事であつた。平八郎は格
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