護送して来た吉見九郎右衛門、同《おなじく》英太郎、河合|八十次郎《やそじらう》、大井正一郎、安田図書《やすだづしよ》、大西|与五郎《よごらう》、美吉屋《みよしや》五郎兵衛、同《おなじく》つね、其外《そのほか》西村利三郎を連れて伊勢から仙台に往き、江戸で利三郎が病死するまで世話をした黄檗《わうばく》の僧|剛嶽《がうがく》、江戸で西村を弟子にした橋本町一丁目の願人《ぐわんにん》冷月《れいげつ》、西村の死骸を葬《はうむ》つた浅草|遍照院《へんせうゐん》の所化《しよけ》尭周《げうしう》等が呼び出されて、七月十六日から取調《とりしらべ》が始まつた。次いで役人が大阪へも出張して、両方で取り調べた。罪案が定まつて上申せられたのは天保九年|閏《うるふ》四月八日で、宣告のあつたのは八月二十一日である。
 平八郎、格之助、渡辺、瀬田、小泉、庄司、近藤、大井、深尾、茨田《いばらだ[#「いばらだ」はママ]》、高橋、父|柏岡《かしはをか》、倅柏岡、西村、宮脇、橋本、白井孝右衛門と暴動には加はらぬが連判をしてゐた摂津《せつゝ》森小路村《もりこうぢむら》の医師横山|文哉《ぶんさい》、同国|猪飼野村《ゐかひのむら》の百姓木村|司馬之助《しまのすけ》との十九人、それから返忠《かへりちゆう》をし掛けて遅疑《ちぎ》した弓奉行組《ゆみぶぎやうぐみ》同心小頭《どうしんこがしら》竹上《たけがみ》万太郎は磔《はりつけ》になつた。然《しか》るに九月十八日に鳶田《とびた》で刑の執行があつた時、生きてゐたのは竹上一|人《にん》である。他《た》の十九人は、自殺した平八郎、渡辺、瀬田、近藤、深尾、宮脇、病死した西村、人に殺された格之助、小泉を除き、彼《かの》江戸へ廻された大井迄|悉《こと/″\》く牢死したので、磔柱《はりつけばしら》には塩詰《しほづめ》の死骸を懸けた。中にも平八郎|父子《ふし》は焼けた死骸を塩詰にして懸けられたのである。西村は死骸が腐つてゐたので、墓を毀《こぼ》たれた。
 松本、堀井、杉山、曾我《そが》、植松《うゑまつ》、大工作兵衛、猟師金助、美吉屋五郎兵衛、瀬田の中間《ちゆうげん》浅佶《あさきち》、深尾の募集に応じた尊延寺村《そんえんじむら》の百姓忠右衛門と無宿《むしゆく》新右衛門とは獄門《ごくもん》、暴動に加はらぬ与党の内、上田、白井|孝右衛門《かうゑもん》の甥《をひ》儀次郎《ぎじらう》、般若寺村《は
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