岡野等は戸を打ちこはした。そして戸口から岡野が呼び掛けた。「平八郎|卑怯《ひけふ》だ。これへ出い。」
「待て」と、平八郎が離座敷《はなれざしき》の雨戸の内から叫んだ。
岡野等は暫《しばら》くためらつてゐた。
表口《おもてぐち》の内側にゐた菊地鉄平は、美吉屋の女房小供や奉公人の立《た》ち退《の》いた跡《あと》で暫《しばら》く待つてゐたが、板塀《いたべい》の戸口で手間の取れる様子を見て、鍵形《かぎがた》になつてゐる表の庭を、縁側の角《すみ》に附いて廻つて、戸口にゐる同心に、「もう踏み込んではどうだらう」と云つた。
「宜《よろ》しうございませう」と同心が答へた。
鉄平は戸口をつと這入《はひ》つて、正面にある離座敷《はなれざしき》の雨戸を半棒《はんぼう》で敲《たゝ》きこはした。戸の破れた所からは烟が出て、火薬の臭《にほひ》がした。
鉄平に続いて、同心、岡野、菊地弥六、松高が一しよに踏み込んで、残る雨戸を打ちこはした。
離座敷の正面には格之助の死骸らしいものが倒れてゐて、それに衣類を覆《おほ》ひ、間内《まうち》の障子をはづして、死骸の上を越させて、雨戸に立て掛け、それに火を附けてあつた。雨戸がこはれると、火の附いた障子が、燃《も》えながら庭へ落ちた。死骸らしい物のある奥の壁際《かべぎは》に、平八郎は鞘《さや》を払つた脇差《わきざし》を持つて立つてゐたが、踏み込んだ捕手《とりて》を見て、其|刃《やいば》を横に吭《のど》に突き立て、引き抜いて捕手の方へ投げた。
投げた脇差は、傍輩《はうばい》と一しよに半棒で火を払ひ除《の》けてゐる菊地弥六の頭を越し、襟《えり》から袖をかすつて、半棒に触れ、少し切り込んでけし飛んだ。弥六の襟、袖、手首には、灑《そゝ》ぎ掛けたやうに血が附いた。
火は次第に燃えひろがつた。捕手は皆|焔《ほのほ》を避けて、板塀の戸口から表庭《おもてには》へ出た。
弥六は脇差を投げ附けられたことを鉄平に話した。鉄平が「そんなら庭にあるだらう」と云つて、弥六を連れて戸口に往つて見ると、四五尺ばかり先に脇差は落ちてゐる。併《しか》し火が強くて取りに往くことが出来ない。そこへ最初案内に立つた同心が来て、「わたくし共の木刀には鍔《つば》がありますから、引つ掛けて掻《か》き寄せませう」と云つた。脇差は旨《うま》く掻き寄せられた。柄《つか》は茶糸巻《ちやいとまき》
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