て奥へ通るので、五郎兵衛は先に立つて、納戸《なんど》の小部屋に案内した。五郎兵衛が、「どうなさる思召《おぼしめし》か」と問ふと、平八郎は只《たゞ》「当分厄介になる」とだけ云つた。
 陰謀の首領をかくまふと云ふことが、容易ならぬ罪になるとは、五郎兵衛もすぐに思つた。併《しか》し平八郎の言ふことは、年来|暗示《あんじ》のやうに此|爺《ぢ》いさんの心の上に働く習慣になつてゐるので、ことわることは所詮《しよせん》出来ない。其上親子が放さずに持つてゐる脇差も、それとなく威嚇《ゐかく》の功を奏してゐる。五郎兵衛は只二人を留めて置いて、若《も》し人に知られるなら、それが一刻も遅く、一日も遅いやうにと、禍殃《くわあう》を未来に推《お》し遣《や》る工夫をするより外ない。そこで小部屋の襖《ふすま》をぴつたり締め切つて、女房にだけわけを話し、奉公人に知らせぬやうに、食事を調《とゝの》へて運ぶことにした。
 一日立つ。二日立つ。いつは立《た》ち退《の》いてくれるかと、老人夫婦は客の様子を覗《うかゞ》つてゐるが、平八郎は落ち着き払つてゐる。心安《こゝろやす》い人が来ては奥の間へ通ることもあるので、襖一重《ふすまひとへ》の先にお尋者《たづねもの》を置くのが心配に堪へない。幸《さいはひ》に美吉屋《みよしや》の家には、坤《ひつじさる》の隅《すみ》に離座敷《はなれざしき》がある。周囲《まはり》は小庭《こには》になつてゐて、母屋《おもや》との間には、小さい戸口の附いた板塀《いたべい》がある。それから今一つすぐに往来に出られる口が、表口から西に当る路次《ろじ》に附いてゐる。此離座敷なら家族も出入せぬから、奉公人に知られる虞《おそれ》もない。そこで五郎兵衛は平八郎父子を夜中にそこへ移した。そして日々《にち/\》飯米《はんまい》を測《はか》つて勝手へ出す時、紙袋《かみぶくろ》に取り分け、味噌《みそ》、塩《しほ》、香《かう》の物《もの》などを添へて、五郎兵衛が手づから持ち運んだ。それを親子|炭火《すみび》で自炊《じすゐ》するのである。
 兎角《とかく》するうちに三月になつて、美吉屋《みよしや》にも奉公人の出代《でかはり》があつた。その時女中の一人が平野郷《ひらのがう》の宿元《やどもと》に帰つてこんな話をした。美吉屋では不思議に米が多くいる。老人夫婦が毎日米を取り分けて置くのを、奉公人は神様に供《そな》へるのだ
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