。そしてそれと同時に自分の境遇を不思議な程|的確《てきかく》に判断することが出来た。
 瀬田は跳《は》ね起《お》きた。眩暈《めまひ》の起《おこ》りさうなのを、出来るだけ意志を緊張してこらへた。そして前に爺《ぢ》いさんの出て行つた口から、同じやうに駈け出した。行灯《あんどう》の下《もと》の婆《ば》あさんは、又|呆《あき》れてそれを見送つた。
 百姓家の裏に出て見ると、小道を隔てて孟宗竹《まうそうちく》の大籔《おほやぶ》がある。その奥を透《す》かして見ると、高低種々の枝を出してゐる松の木がある。瀬田は堆《うづたか》く積もつた竹の葉を蹈《ふ》んで、松の下に往つて懐《ふところ》を探つた。懐には偶然|捕縄《とりなは》があつた。それを出してほぐして、低い枝に足を蹈《ふ》み締《し》めて、高い枝に投げ掛けた。そして罠《わな》を作つて自分の頸《くび》に掛けて、低い枝から飛び降りた。瀬田は二十五歳で、脇差を盗まれたために、見苦しい最期《さいご》を遂げた。村役人を連れて帰つた爺《ぢ》いさんが、其夜《そのよ》の中《うち》に死骸を見付けて、二十二日に領主稲葉|丹後守《たんごのかみ》に届けた。
 平八郎は格之助の遅《おく》れ勝《がち》になるのを叱り励まして、二十二日の午後に大和《やまと》の境《さかひ》に入つた。それから日暮に南畑《みなみはた》で格之助に色々な物を買はせて、身なりを整へて、駅のはづれにある寺に這入《はひ》つた。暫《しばら》くすると出て来て、「お前も頭を剃《そ》るのだ」と云つた。格之助は別に驚きもせず、連れられて這入つた。親子が僧形《そうぎやう》になつて、麻の衣を着て寺を出たのは、二十三日の明《あけ》六つ頃であつた。
 寺にゐた間は平八郎が殆《ほとんど》一|言《ごん》も物を言はなかつた。さて寺を出離れると、平八郎が突然云つた。「さあ、これから大阪に帰るのだ。」
 格之助も此《この》詞《ことば》には驚いた。「でも帰りましたら。」
「好《い》いから黙つて附いて来い。」
 平八郎は足の裏が燃《も》えるやうに逃げて来た道を、渇《かつ》したものが泉を求めて走るやうに引き返して行く。傍《はた》から見れば、その大阪へ帰らうとする念は、一種の不可抗力のやうに平八郎の上に加はつてゐるらしい。格之助も寺で宵《よひ》と暁《あかつき》とに温《あたゝか》い粥《かゆ》を振舞《ふるま》はれてからは、霊薬《れいや
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