羽織を脱《ぬ》いで平八郎に襲《かさ》ねさせたので、誰よりも強く寒さに侵《をか》されたものだらう。平八郎は瀬田に、兎《と》に角《かく》人家に立ち寄つて保養して跡から来るが好いと云つて、無理に田圃道《たんぼみち》を百姓家のある方へ往かせた。其|後影《うしろかげ》を暫く見送つてゐた平八郎は、急に身を起して焚火を踏み消した。そして信貴越《しぎごえ》の方角を志《こゝろざ》して、格之助と一しよに、又|間道《かんだう》を歩き出した。
 瀬田は頭がぼんやりして、体《からだ》ぢゆうの脈が鼓《つゞみ》を打つやうに耳に響く。狭い田の畔道《くろみち》を踏んで行くに、足がどこを踏んでゐるか感じが無い。動《やゝ》もすれば苅株《きりかぶ》の間の湿《しめ》つた泥に足を蹈《ふ》み込む。やう/\一軒の百姓家の戸の隙《すき》から明かりのさしてゐるのにたどり着いて、瀬田ははつきりとした声で、暫《しばら》く休息させて貰《もら》ひたいと云つた。雨戸を開けて顔を出したのは、四角な赭《あか》ら顔の爺《ぢ》いさんである。瀬田の様子をぢつと見てゐたが、思《おもひ》の外《ほか》拒《こば》まうともせずに、囲炉裏《ゐろり》の側《そば》に寄つて休めと云つた。婆《ば》あさんが草鞋《わらぢ》を脱《ぬ》がせて、足を洗つてくれた。瀬田は火の側《そば》に横になるや否《いな》や、目を閉ぢてすぐに鼾《いびき》をかき出した。其時爺いさんはそつと瀬田の顔に手を当てた。瀬田は知らずにゐた。爺いさんはその手を瀬田の腰の所に持つて往つて、脇差《わきざし》を抜き取つた。そしてそれを持つて、家を駈け出した。行灯《あんどう》の下にすわつた婆あさんは、呆《あき》れて夫の跡《あと》を見送つた。
 瀬田は夢を見てゐる。松並木のどこまでも続いてゐる街道を、自分は力限《ちからかぎり》駈《か》けて行く。跡《あと》から大勢《おほぜい》の人が追ひ掛けて来る。自分の身は非常に軽くて、殆《ほとんど》鳥の飛ぶやうに駈けることが出来る。それに追ふものの足音が少しも遠ざからない。瀬田は自分の足の早いのに頗《すこぶる》満足して、只《たゞ》追ふものの足音の同じやうに近く聞えるのを不審に思つてゐる。足音は急調《きふてう》に鼓《つゞみ》を打つ様に聞える。ふと気が附いて見ると、足音と思つたのは、自分の脈の響くのであつた。意識が次第に明瞭になると共に、瀬田は腰の物の亡《な》くなつたのを知つた
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