よたう》を召《め》し捕《と》られる時には、矢張《やはり》召し捕つて貰《もら》ひたい。或は其間《そのあひだ》に自殺するかも知れない。留置《とめおき》、預《あづ》けなどゝ云ふことにせられては、病体で凌《しの》ぎ兼《か》ねるから、それは罷《やめ》にして貰ひたいB倅英太郎は首領の立てゝゐる塾で、人質《ひとじち》のやうになつてゐて帰つて来ない。兎《と》に角《かく》自分と一族とを赦免《しやめん》して貰ひたい。それから西組|与力見習《よりきみならひ》に内山彦次郎《うちやまひこじらう》と云ふものがある。これは首領に嫉《にく》まれてゐるから、保護を加へて貰ひたいと云ふのである。
 読んでしまつて、堀は前から懐《いだ》いてゐた憂慮は別として、此訴状の筆者に対する一種の侮蔑《ぶべつ》の念を起さずにはゐられなかつた。形式に絡《から》まれた役人生涯に慣れてはゐても、成立してゐる秩序を維持するために、賞讃すべきものにしてある返忠《かへりちゆう》を、真《まこと》の忠誠だと看《み》ることは、生《うま》れ附いた人間の感情が許さない。その上自分の心中の私《わたくし》を去ることを難《かた》んずる人程|却《かへ》つて他人の意中の私《わたくし》を訐《あば》くに敏《びん》なるものである。九郎右衛門は一しよに召《め》し捕《と》られたいと云ふ。それは責《せめ》を引く潔《いさぎよ》い心ではなくて、与党を怖《おそ》れ、世間を憚《はゞか》る臆病である。又自殺するかも知れぬと云ふ。それは覚束《おぼつか》ない。自殺することが出来るなら、なぜ先《ま》づ自殺して後に訴状を貽《のこ》さうとはしない。又牢に入れてくれるなと云ふ。大阪の牢屋から生きて還《かへ》るものゝ少いのは公然の秘密だから、病体でなくても、入《い》らずに済《す》めば入《い》るまいとする筈である。横着者《わうちやくもの》だなとは思つたが、役馴《やくな》れた堀は、公儀《こうぎ》のお役に立つ返忠《かへりちゆう》のものを周章《しうしやう》の間にも非難しようとはしない。家老に言ひ付けて、少年二人を目通《めどほ》りへ出させた。
「吉見英太郎と云ふのはお前か。」
「はい。」怜悧《れいり》らしい目を見張つて、存外|怯《おく》れた様子もなく堀を仰《あふ》ぎ視《み》た。
「父九郎右衛門は病気で寝てをるのぢやな。」
「風邪《ふうじや》の跡《あと》で持病の疝痛《せんつう》痔疾《ぢしつ》が
前へ 次へ
全63ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング