はすぐにあの事だなと思つた。堀のためには、中泉が英太郎の手から受け取つて出した書付《かきつけ》の内容は、未知《みち》の事の発明ではなくて、既知《きち》の事の証験《しようけん》として期待せられてゐるのである。
堀は訴状を披見《ひけん》した。胸を跳《をど》らせながら最初から読んで行くと、果《はた》してきのふ跡部《あとべ》に聞いた、あの事である。陰謀《いんぼう》の首領《しゆりやう》、その与党《よたう》などの事は、前に聞いた所と格別の相違は無い。長文の訴状の末三分の二程は筆者九郎右衛門の身囲《みがこひ》である。堀が今少しく精《くは》しく知りたいと思ふやうな事は書いてなくて、読んでも読んでも、陰謀に対する九郎右衛門の立場、疑懼《ぎく》、愁訴《しうそ》である。きのふから気に掛かつてゐる所謂《いはゆる》一大事がこれからどう発展して行くだらうか、それが堀自身にどう影響するだらうかと、とつおいつ考へながら読むので、動《やゝ》もすれば二行も三行も読んでから、書いてある意味が少しも分かつてをらぬのに気が附く。はつと思つては又読み返す。やう/\読んでしまつて、堀の心の内には、きのふから知つてゐる事の外に、これ丈《だけ》の事が残つた。陰謀の与党の中で、筆者と東組与力|渡辺良左衛門《わたなべりやうざゑもん》、同組同心|河合郷左衛門《かはひがうざゑもん》との三人は首領を諫《いさ》めて陰謀を止《や》めさせようとした。併《しか》し首領が聴かぬ。そこで河合は逐電《ちくてん》した。筆者は正月三日|後《ご》に風を引いて持病が起つて寝てゐるので、渡辺を以《もつ》て首領にことわらせた。此体《このてい》では事を挙げられる日になつても所詮《しよせん》働く事は出来ぬから、切腹して詫《わ》びようと云つたのである。渡辺は首領の返事を伝へた。そんならゆる/\保養しろ。場合によつては立《た》ち退《の》けと云ふことである。これを伝へると同時に、渡辺は自分が是非なく首領と進退を共にすると決心したことを話した。次いで首領は倅《せがれ》と渡辺とを見舞によこした。筆者は病中やう/\の事で訴状を書いた。それを支配を受けてゐる東町奉行に出さうには、取次《とりつぎ》を頼むべき人が無い。そこで隔所《かくしよ》を見計《みはか》らつて托訴《たくそ》をする。筆者は自分と倅英太郎以下の血族との赦免《しやめん》を願ひたい。尤《もつと》も自分は与党《
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