起りまして、行歩《ぎやうほ》が※[#「りっしんべん+(はこがまえ+夾)」、第3水準1−84−56、164−11]《かな》ひませぬ。」
「書付《かきつけ》にはお前は内へ帰られぬと書いてあるが、どうして帰られた。」
「父は帰られぬかも知れぬが、大変になる迄《まで》に脱《ぬ》けて出られるなら、出て来いと申し付けてをりました。さう申したのは十三日に見舞に参つた時の事でございます。それから一しよに塾にゐる河合|八十次郎《やそじらう》と相談いたしまして、昨晩|四《よ》つ時《どき》に抜けて帰りました。先生の所にはお客が大勢《おほぜい》ありまして、混雑いたしてゐましたので、出られたのでございます。それから。」英太郎は何か言ひさして口を噤《つぐ》んだ。
堀は暫《しばら》く待つてゐたが、英太郎は黙つてゐる。「それからどういたした」と、堀が問うた。
「それから父が申しました。東の奉行所には瀬田と小泉とが当番で出てをりますから、それを申し上げいと申しました。」
「さうか。」東組与力瀬田|済之助《せいのすけ》、同小泉|淵次郎《えんじらう》の二人が連判《れんぱん》に加はつてゐると云ふことは、平山の口上《こうじやう》にもあつたのである。
堀は八十次郎の方に向いた。「お前が河合八十次郎か。」
「はい。」頬《ほゝ》の円《まる》い英太郎と違つて、これは面長《おもなが》な少年であるが、同じやうに小気《こき》が利《き》いてゐて、臆《おく》する気色《けしき》は無い。
「お前の父はどういたしたのぢや。」
「母が申しました。先月の二十六日の晩であつたさうでございます。父は先生の所から帰つて、火箸《ひばし》で打擲《ちやうちやく》せられて残念だと申したさうでございます。あくる朝父は弟の謹之助《きんのすけ》を連れて、天満宮《てんまんぐう》へ参ると云つて出ましたが、それ切《きり》どちらへ参つたか、帰りません。」
「さうか。もう宜《よろ》しい。」かう云つて堀は中泉を顧みた。
「いかが取り計らひませう」と、中泉が主人の気色《けしき》を伺つた。
「番人を附けて留《と》め置け。」かう云つて置いて、堀は座を立つた。
堀は居間に帰つて不安らしい様子をしてゐたが、忙《いそが》しげに手紙を書き出した。これは東町奉行に宛てて、当方にも訴人《そにん》があつた、当番の瀬田、小泉に油断せられるな、追附《おつつけ》参上すると書いたのである
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