平八郎の叔父宮脇|志摩《しま》の所へ捕手《とりて》の向つたのは翌二十日で、宮脇は切腹して溜池《ためいけ》に飛び込んだ。船手《ふなて》奉行の手で、川口の舟を調べはじめたのは、中一日置いた二十一日の晩からである。城の兵備を撤《てつ》したのも二十一日である。
朝五つ時に天満《てんま》から始まつた火事は、大塩の同勢が到る処に大筒を打ち掛け火を放つたので、風の余り無い日でありながら、思《おもひ》の外《ほか》にひろがつた。天満は東が川崎、西が知源寺《ちげんじ》、摂津国町《つのくにまち》、又二郎町《またじらうまち》、越後町、旅籠町《はたごまち》、南が大川、北が与力町を界《さかひ》とし、大手前から船場《せんば》へ掛けての市街は、谷町《たにまち》一丁目から三丁目までを東界《ひがしさかひ》、上大《かみおほ》みそ筋から下難波橋《しもなんばばし》筋までを西界《にしさかひ》、内本町《うちほんまち》、太郎左衛門町《たらうざゑもんまち》、西入町《にしいりまち》、豊後町《ぶんごまち》、安土町《あづちまち》、魚屋町《うをやまち》を南界《みなみさかひ》、大川、土佐堀川を北界《きたさかひ》として、一面の焦土となつた。本町橋《ほんまちばし》東詰で、西町奉行堀に分れて入城した東町奉行跡部は、火が大手近く燃《も》えて来たので、夕《ゆふ》七つ時に又坂本以下の与力同心を率ゐて火事場に出馬した。丁度|火消人足《ひけしにんそく》が谷町で火を食ひ止めようとしてゐる所であつたが、人数が少いのと一同疲れてゐるのとのために、暮《くれ》六つ半《はん》に谷町代官所に火の移るのを防ぐことが出来なかつた。鎮火したのは翌二十日の宵《よひ》五つ半である。町数《まちかず》で言へば天満組四十二町、北組五十九町、南組十一町、家数《いへかず》、竈数《かまどかず》で言へば、三千三百八十九軒、一万二千五百七十八戸が災《わざはひ》に罹《かゝ》つたのである。
十一、二月十九日の後の一、信貴越
大阪|兵燹《へいせん》の余焔《よえん》が城内の篝火《かがりび》と共に闇《やみ》を照《てら》し、番場《ばんば》の原には避難した病人産婦の呻吟《しんぎん》を聞く二月十九日の夜、平野郷《ひらのがう》のとある森蔭《もりかげ》に体《からだ》を寄せ合つて寒さを凌《しの》いでゐる四人があつた。これは夜《よ》の明《あ》けぬ間《ま》に河内《かはち》へ越さうとして、身も
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