む。十九日暁七時吉見英太郎、河合八十次郎英太郎が父の書を懐《ふところ》にして、平八郎の陰謀を堀利堅に告発す。東町奉行所に跡部平八郎の与党小泉淵次郎を斬らしめ、瀬田済之助を逸す。瀬田逃れて平八郎の家に至る。平八郎宇津木を殺さしめ、朝五時事を挙ぐ。昼九時北浜に至る。鴻池等を襲ふ。跡部の兵と平野橋、淡路町に闘ふ。二十日夜兵火|息《や》む。二十四日夕平八郎父子油懸町美吉屋五郎兵衛の家に潜《ひそ》む。三月二十七日平八郎父子死す。
九年戊戌 八月二十一日平八郎等の獄定まる。九月十八日平八郎以下二十人を鳶田に磔す。竹上一人を除く外、皆|屍《しかばね》なり。十月江戸日本橋に捨札を掲ぐ。
二月十九日中の事を書くに、十九日前の事を回顧する必要があるやうに、十九日後の事も多少書き足さなくてはならない。それは平八郎の末路を明にして置きたいからである。平八郎は十九日の夜大阪下寺町を彷徨してゐた。それから二十四日の夕方同所油懸町の美吉屋に来て潜伏するまでの道行は不確である。併し下寺町で平八郎と一しよに彷徨してゐた渡辺良左衛門は河内国志紀郡田井中村で切腹してをり、瀬田済之助は同国高安郡恩地村で縊死《いし》してをつて、二人の死骸は二十二日に発見せられた。そこで大阪下寺町、河内田井中村、同恩地村の三箇所を貫いて線を引いて見ると、大阪から河内国を横断して、大和国に入る道筋になる。平八郎が二十日の朝から二十四日の暮までの間に、大阪、田井中、恩地の間を往反したことは、殆《ほとんど》疑を容《い》れない。又下寺町から田井中へ出るには、平野郷口から出たことも、亦《また》推定することが出来る。唯《たゞ》恩地から先をどの方向にどれ丈歩いたかが不明である。
試みに大阪、田井中、恩地の線を、甚しい方向の変換と行程の延長とを避けて、大和境に向けて引いて見ると、亀瀬峠《かめのせたうげ》は南に偏し、十三峠は北に偏してゐて、恩地と相隣してゐる服部川《はつとりがは》から信貴越《しきごえ》をするのが順路だと云ひたくなる。かう云ふ理由で、私は平八郎父子に信貴越をさせた。そして美吉屋を叙する前に、信貴越の一段を挿入した。
二月十九日後の記事は一、信貴越 二、美吉屋 三、評定と云ふことになつた。
――――――――――――――――――――[#直線は中央に配置]
平八郎が暴動の原因は、簡単に言へば飢饉である。外に種々の説があつても、
前へ
次へ
全63ページ中57ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング