大抵|揣摩《しま》である。
 大阪は全国の生産物の融通分配を行つてゐる土地なので、どの地方に凶歉《きようけん》があつても、すぐに大影響を被《かうむ》る。市内の賤民が飢饉に苦むのに、官吏や富豪が奢侈を恣《ほしいまゝ》にしてゐる。平八郎はそれを憤《いきどほ》つた。それから幕府の命令で江戸に米を回漕《くわいさう》して、京都へ遣《や》らない。それをも不公平だと思つた。江戸の米の需要に比すれば、京都の米の需要は極《ごく》僅少であるから、京都への米の運送を絶たなくても好ささうなものである。全国の石高《こくだか》を幕府、諸大名、御料、皇族並公卿、社寺に配当したのを見るに、左の通である。
      石高実数(単位万石) 全国石高に対する百分比例
徳川幕府   800         29.2
諸大名   1900         69.4
御料      3          0.1
皇族并公卿   4.7         0.2
社寺      30          1.2
――――――――――――――――――――
 計    2737.7        100
 天保元年、二年は豊作であつた。三年の春は寒気が強く、気候が不順になつて、江戸で白米が小売百文に付五合になつた。文政頃百文に付三升であつたのだから、非常な騰貴である。四年には出羽の洪水のために、江戸で白米が一両に付四斗、百文に付四合とまでなつた。卸値《おろしね》は文政頃一両に付二石であつたのである。五年になつても江戸で最高価格が前年と同じであつた。七年には五月から寒くなつて雨が続き、秋洪水があつて、白米が江戸で一両に付一斗二升、百文に付二合とまでなつた。大阪では江戸程の騰貴を見なかつたらしいが、当時大阪総年寄をしてゐた今井官之助、後に克復と云つた人の話に、一石二十七匁五分の白米が二百匁近くなつてゐたと云ふことである。いかにも一石百八十七匁と云ふ記載がある。金一両銀六十匁銭六貫五百文の比例で換算して見ると、平常の一石二十七匁五分は一両に付二石一斗八升となり、一石百八十七匁は一両に付三斗二升となる。百文に付四合九勺である。此年の全国の作割と云ふものがある。
五畿内東山道   45%
東海道      45
関八州    30―40
奥州       28
羽州       40
北陸道      54
山陰道      
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