Nス」に傍線]が廢城の殘壁ありて、猶|巍々《ぎゞ》として雲を凌《しの》げり。(譯者云。東「ゴトネス」族の王なり。西暦四百八十九年東羅馬帝の命を奉じて敵を破り、伊太利を領す。)
我心は景色に撲《う》たれて夢みる如くなりぬ。忽ち海の我前に横はるに逢ひぬ。われは始て海を見つるなり、始て地中海を見つるなり。水は天に連りて一色の琉璃《るり》をなせり。島嶼《たうしよ》の碁布《きふ》したるは、空に漂ふ雲に似たり。地平線に近きところに、一條の烟立ちのぼれるは、ヱズヰオ[#「ヱズヰオ」に二重傍線]の山(モンテ、ヱズヰオ)なるべし。沖の方は平なること鏡の如きに、岸邊には青く透きとほりたる波寄せたり。その岩に觸るゝや、鼓《つゞみ》の如き音立てゝぞ碎くる。われは覺えず歩を駐《とゞ》めたり。わが滿身の鮮血は蕩《とろ》け散りて氣となり、この天この水と同化し去らんと欲す。われは小兒の如く啼きて、涙は兩頬に垂れたり。市に大なる白堊《しろつち》の屋ありて、波はその礎《いしずゑ》を打てり。下の一層は街に面したる大弓道をなして、その中には數輛の車を並べ立てたり。こはテルラチナ[#「テルラチナ」に二重傍線]の驛舍にして、羅馬《ロオマ》拿破里《ナポリ》の間第一と稱へらる。
鞭聲《べんせい》の反響に、近き山の岩壁を動かして、駟馬《しば》の車を驛舍の前に駐《とゞ》むるものあり。車座の背後《うしろ》には、兵器《うちもの》を執りたる從卒|數人《すにん》乘りたり。車中の客を見れば、痩せて色蒼き男の斑《まだら》に染めたる寢衣《ねまき》を纏ひて、懶《ものう》げに倚《よ》り坐せるなり。馭者は疾く下りて、又二たび三たび其鞭を鳴し、直ちに馬を續《つ》ぎ替へたり。さて護衞の士兵ありやと問へば、十五分間には揃ふべしと答へぬ。こはゆくての山路に、フラア・ヂヤヲロ[#「フラア・ヂヤヲロ」に傍線]、デ・チエザレ[#「デ・チエザレ」に傍線]の流を汲むものありとて、當時こゝを過ぐる旅客の雇ふものとぞ聞えし。(前者は伊太利大盜の名にして、同胞魔君の義なり。實の氏名をミケレ・ペツツア[#「ミケレ・ペツツア」に傍線]といふ。千七百九十九年|夥伴《なかま》を率《ひき》ゐて拿破里王に屬し、佛兵と戰ひて功あり。官職を授けらる。後佛兵のために擒《とりこ》にせられて、千八百六年拿破里に斬首せらる。後者も亦名ある盜なり。)客は英吉利語に伊太利語まぜて、此國の人の心鈍く氣長き爲に、旅人の迷惑いかばかりぞと罵りしが、やうやく思ひあきらめたりと覺しく、大なる紛※[#「巾+兌」、75−中段−15]《てふき》を結びて頭巾となし、兩の耳も隱るゝやうに被り、眼を閉ぢて默坐せり。馭者の語るを聞けば、この英人は伊太利に來てより十日あまりなるべし。北伊太利、中伊太利をばことごとく見果てつ。羅馬をば一日に看盡したり。此より拿破里にゆきて、ヱズヰオ[#「ヱズヰオ」に二重傍線]に登り、汽船にて馬耳塞《マルセイユ》に渡り、南佛蘭西を遊歴すべしとなり。士兵八騎はいかめしく物具して至れり。馭者は鞭を揮《ふる》へり。馬も車も、忽ち黄なる岩壁にそひたる閭門《りよもん》を過ぎ去りぬ。
一故人
客舍の前にはたけ矮《ひく》く逞《たく》ましげなる男ありて、車の去るを見送りたるが、手に持てる鞭を揮ひて鳴らし、あたりの人に向ひていふやう。護衞はいかに嚴めしくとも、兵器《うちもの》の數はいかに多くとも、我客人となりて往くことの安穩なるには若《し》かじ。英吉利人ほど心忙しきものはなし。馬はいつも驅歩《かけあし》なり。氣まぐれなる人柄かなと嘲《あざ》み笑へり。われこれに聲かけて、おん身の車には既に幾位《いくたり》の客人をか得給ひしと問へば、隅ごとに眞心《まごころ》一つなれば、四人は早く備りたり、されど二輪車の中は未《まだ》一人のみなり。ナポリ[#「ナポリ」に二重傍線]へと志し給はゞ、明後日は旭日《あさひ》のまだサンテルモ[#「サンテルモ」に二重傍線]城(ナポリ[#「ナポリ」に二重傍線]府を横斷する丘陵あり、其|巓《いたゞき》の城を「カステル、サンテルモ」といふ)に刺さぬ間に送り屆け參らすべしと答ふ。爲換《かはせ》ありて現金なき我がためには、此勸めのいと嬉しく、談合は忽ちに纏まりぬ。(原註。伊太利の旅を知らぬ人のために註すべし。彼國の車主《エツツリノ》は例として前金を受けず、途中の旅籠《はたご》一切をまかなひくれたる上、小使錢さへ客に交付《わた》し、安着の後決算するなり。)
車主は客人も零錢《こぜに》の御用あるべければとて、五「パオリ」の銀貨一枚|撮《つま》み出して我に渡しつ。われ。さらば食卓の好き座席と臥床《ふしど》とを頼むなり。明日は滯《とゞこほり》なく車を出してよ。車主。勿論にこそ候へ。聖《サン》アントニオ[#「アントニオ」に傍線]と我馬との思召だにくるはずば、正三時には出で立つべし。されど明日はむづかしき日にて候ふ。税關の調べ二度、手形の改め三度あるべし。さらば、平かに憩はせ給へとて、車主は手を帽庇《ばうひ》に加へ、輕く頷きて去りぬ。
誘はれたる部屋は海に向へり。折しも風輕く起りて、窓の下には長き形したる波の寄ては又返すを見る。こゝの景色はカムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の景色とは全く殊なるに、いかなれば吾胸中には、少時の住家の事、ドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]の媼《おうな》の事など浮び出でけん。世の中は廣けれど、眞ごゝろより我上を氣遣ひ呉るゝ人、彼媼の如きはあらじ。近きところに住みながら、屡※[#二の字点、1−2−22]往きて訪ふことだになかりしは、我と我身の怪まるゝばかりなり。彼フランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]の君の如きは、我を愛し給はざるにあらねど、凡そ恩をきるものと恩をきするものとの間には、未だ報恩の志を果さゞる限は、大なる溝渠ありて、縱《たと》ひ優しき情《なさけ》の蔓草の生ひまつはりて、これを掩《おほ》ふことあらんも、能く全くこれを填《うづ》むることなし。漸くにして、ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]とアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]との上に想ひ及ぶとき、われは頬《ほ》の邊の沾《うるほ》ふを覺えき。涙にやありし、又窓の下なる石垣に中《あた》りし波の碎け散りて面に濺《そゝ》ぎたるにやありし。
翌日は夜のまだ明けぬに、車に乘りてテルラチナ[#「テルラチナ」に二重傍線]を立ちぬ。領分境に至りて、手形改めあるべしとて、人々車を下りぬ。此の時始めて同行の人を熟視したるに、齡《よはひ》三十あまりと覺しく、髮の色|明《あか》く瞳子《ひとみ》青き男我目にとまれり。何處にてか見たりけん、心におぼえある顏なり。その詞を聞けば外國音《とつくにおん》なり。
手形は多く外國文《とつくにおん》もて認《したゝ》めたるに、境守る兵士は故里《ふるさと》の語だによくは知らねば、檢閲は甚しく手間取りたり。瞳子青き男は帖《てふ》一つ取出でゝ、あたりの景色を寫せり。げに街道に据ゑたる關の、上に二三の尖《とが》れる塔を戴きたる、その側なる天然の洞穴、遠景たるべき山腹の村落、皆好畫料とぞ思はるゝ。
わが背後《うしろ》よりさし覗きし時、畫工はわれを顧みて、あの大なる洞《ほら》の中なる山羊《やぎ》の群のおもしろきを見給へと指ざし示せり。その詞未だ畢《をは》らざるに、洞の前に横へたる束藁《たばねわら》は取り除《の》けられたり。山羊は二頭づゝの列をなして洞より出で、山の上に登りゆけり。殿《しんがり》には一人の童子あり。尖りたる帽を紐もて結び、褐色《かちいろ》の短き外套を纏ひ、足には汚れたる韈《くつした》はきて、鞋《わらぢ》を括《くゝ》り付けたり。童は洞の上なる巖頭に歩を停めて、我等の群を見下せり。
忽ち車主《エツツリノ》の一聲の因業《マレデツトオ》を叫びて、我等に馳せ近づくを見き。手形の中、不明なるもの一枚ありとの事なり。われはその一枚の必ず我劵なるべきを思ひて、滿面に紅を潮《さ》したり。畫工は劵の惡しきにはあらず、吏のえ讀まぬなるべしと笑ひぬ。
我等は車主の後につきて、彼塔の一つに上りゆき戸を排して一堂に入りて見るに、卓上に紙を伸べ、四五人の匍匐《はらば》ふ如くにその上に俯したるあり。この大官人中の大官人と覺しく、豪《えら》さうなる一人頭を擡《もた》げて、フレデリツク[#「フレデリツク」に傍線]とは誰ぞと糺問《きうもん》せり。畫工進み出でゝ、御免なされよ、それは小生《わたくし》の名にて、伊太利にていふフエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]なりと答ふ。吏。然らばフレデリツク・シイズ[#「フレデリツク・シイズ」に傍線]とはそこなるか。畫工御免なされよ。それは劵の上の端に記されたる我國王の御名なるべし。吏。左樣か。(と謦咳《せきばらひ》一つして讀み上ぐるやう。)「フレデリツク、シイズ、パアル、ラ、グラアス、ド、ヂヨオ、ロア、ド、ダンマルク、デ、ワンダル、デ、ゴオト。」さてはそこは「ワンダル」なるか。「ワンダル」とは近ごろ聞かぬ野蠻人の名ならずや。畫工。いかにも野蠻人なれば、こたび開化せんために伊太利には來たるなり。その下なるが我名にて、矢張王の名と同じきフレデリツク[#「フレデリツク」に傍線]なり、フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]なり。(「ワンダル」は二千年前の日耳曼《ゲルマン》種の名なり。文に天祐に依りて※[#「王+連」、第3水準1−88−24]馬《デンマルク》の王、「ワンダル」、「ゴオツ」諸族の王などゝ記するは、彼國の舊例なり。)書記の一人語を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]みて、英吉利人なりしよと云へば、外の一人|冷笑《あざわら》ひて、君はいづれの國をも同じやうに視給ふか、劵面にも北方より來しことを記せり、無論|魯西亞《ロシア》領なりといふ。
フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]、※[#「王+連」、第3水準1−88−24]馬《デンマルク》、この數語はわが懷しき記念を喚び起したり。※[#「王+連」、第3水準1−88−24]馬の畫工フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]とは、むかし我母の家に宿り居たる人なり、我を窟墓《カタコムバ》に伴ひし人なり。我がために畫かき、我に銀※[#「金+表」、76−下段−22]《ぎんどけい》を貽《おく》りし人なり。
關守る兵卒は手形に疑はしき廉《かど》なしと言渡しつ。この宣告の早かりしにはフエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]の私《ひそ》かに贈りし「パオロ」一枚の效驗もありしなるべし。塔を下るとき、われフエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]に名謁《なの》りしに、この人は想ふにたがはぬ舊相識にて、さては君は可哀《かはゆ》き小アントニオ[#「アントニオ」に傍線]なりしかと云ひて我手を握りたり。車に上るとき、人に請ひて席を換へ、われとフエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]とは膝を交へて坐し、再び手を握りて笑ひ興じたり。
われは相別れてより後の身の上をつゞまやかに物語りぬ。そはドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]が家にありしこと、羅馬に返りて學校に入りしことなどにて、それより後をばすべて省きつるなり。我は詞を改めて、さてこれよりはナポリ[#「ナポリ」に二重傍線]へ往かんとすと告げたり。
むかし畫工と最後に相見たるは、カムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の野にての事なりき。その時畫工は早晩一たび我を羅馬に迎へんと約したり。畫工は猶當時の言を記し居りて、我にその約を履《ふ》まざりしを謝したり。君に別れて羅馬に歸りしに、故郷の音信《おとづれ》ありて、直ちに北國へ旅立つことゝなりぬ。その後數年の間は、故里《ふるさと》にありしが、伊太利の戀しさは始終忘れがたく、このたびはいよ/\思ひ定めて再遊の途に上りぬ。こゝはわが心の故郷なり。色彩あり、形相《ぎやうさう》あるは、伊太利の山河のみなり。わが曾遊の地に來たる樂しさをば、君もおもひ遣り給へといふ。
彼問ひ我答ふる間に、路程の幾何《いくばく》をか過ぎけん。フオンヂイ[#「フオンヂイ」に二重傍線]の税關の煩ひをも、我心には覺えざりき
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