ァてり。その歌は沈みてその聲は重く、忽ちにして又激越悲壯なり。同胞《はらから》なるアンナア[#「アンナア」に傍線]が彼を焚かんとて積み累《かさ》ねたる薪は今燃え上れり。幕は下りぬ。喝采の聲は暴風の如くなりき。歌女はその色と聲とを以て滿場の客を狂せしめたるなり。觀棚《さじき》よりも土間よりも、アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]、アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]と呼ぶ聲|頻《しきり》なり。幕上りて歌女出でたり。その羞《はじらひ》を含める姿は故《もと》の如くなりき。男は其名を呼び、女は紛※[#「巾+兌」、47−下段−24]《てふき》を振りたり。花束の雨はその頭《かうべ》の上に降れり。幕再び下りしに、呼ぶ聲いよ/\劇《はげ》しかりき。こたびはエネエアス[#「エネエアス」に傍線]に扮せし男優と並びて出でたり。幕三たび下りしに、呼ぶ聲いよ/\劇しかりき。こたびはすべての俳優を伴ひ出でぬ。幕四たび下りしに、呼ぶ聲猶劇しかりき。こたびはアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]又ひとり出でて短き謝辭を陳《の》べたり。此時我詩は花束と共に歌女が足の下に飛べり。呼ぶ聲は未だ遏《や》まねど、幕は復た開かず。この時アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]は幕の一邊より出でゝ、舞臺の前のはづれなる燭に沿ひて歩みつゝ觀客に謝したり。その面には喜の色溢るゝごとくなりき。想ふにけふは歌女が生涯にて最も嬉しき日なりしならん。されどこは特《ひと》り歌女が上にはあらず。我も亦わが生涯の最も嬉しき日を求めば、そは或はけふならんと覺えき。わが目の中にも、わが心の底にも、たゞアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]あるのみなりき。觀客は劇場を出でたり。されど皆未だ肯《あへ》て散ぜず。こは樂屋の口に※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りゆきて、歌女が車に上るを見んとするなるべし。我も衆人《もろひと》の間に介《はさ》まりて、おなじ方《かた》に歩みぬれど、後には傍へなる石垣に押し付けられて動くこと能はず。歌女は樂屋口に出でぬ。客は皆帽を脱ぎてその名を唱へたり。われもこれに聲を合せつゝ、言ふべからざる感の我胸に滿つるを覺えき。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]はもろ人を押し分けて進み、早くも車に近寄りて、歌女がためにその扉を開きぬ。少年の群は轅《ながえ》にすがりて馬を脱《はづ》したり。こは自ら車を輓《ひ》かんとてなりき。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]は聲を顫《ふるは》せてこれを制せんとしつれど、その聲は萬人のその名を呼べるに打ち消されぬ。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]は歌女を車に載せ、おのれは踏板に上りて説き慰めたり。我も轅《ながえ》を握りてかの少年の群と共に喜びぬ。惜むらくは時早く過ぎて、たゞ美しかりし夢の痕を我心の中に留めしのみ。
 歸路に珈琲《コーヒー》店に立寄りしに、幸にベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]に逢ひぬ。羨むべき友なるかな。彼はアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]に近づき、アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]ともの語せり。友のいはく。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]よ。奈何《いか》なりしぞ。汝が心は動かずや。若し骨焦がれ髓《ずゐ》燃えずば、汝は男子にあらじ。さきの年我が彼に近づかんとせしとき、汝は實に我を妨げたり。汝は何故にヘブライオス[#「ヘブライオス」に二重傍線]語を學ぶことを辭《いな》みしか。若し辭まずば、かゝる女と並び坐することを得しならん。汝は猶アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]の我|猶太《ユダヤ》少女なることを疑ふにや。我にはかく迄似たる女の世にあらんとは信ぜられず。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]はたしかに猶太をとめなり。我にチプリイ[#「チプリイ」に二重傍線]の酒を飮せし少女なり。少女は巣を立ちし「フヨニツクス」鳥の如く、かの穢《けがら》はしき猶太廓を出でつるなり。われ。そは信じ難き事なり。我も昔一たびかの女を見きと覺ゆ。若し其人ならば、猶太教徒にあらずして加特力教徒なること疑なし。汝も熟々《つく/″\》彼姿を見しならん。不幸なる猶太教徒の皆負へるカイン[#「カイン」に傍線](亞當《アダム》の子)が印記《しるし》は、一つとしてその面に呈《あらは》れたるを見ざりき。又その詞さへその聲さへ、猶太の民にあるまじきものなり。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]よ。我心はアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が妙音世界に遊びて、ほと/\歸ることを忘れたり。汝は彼少女に近づきたり。汝は彼少女ともの語せり。彼少女は何をか云ひし。彼少女も我等と同じくこよひの幸《さいはひ》を覺えたりしか。友。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]よ。汝が感動せるさまこそ珍らしけれ。「ジエスヰタ」の學校にて結びし氷今融くるなるべし。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が何を云ひしと問ふか。彼少女は粗暴なる少年に車を挽《ひ》かれて、且《かつ》は懼《おそ》れ且は喜びたりき。彼少女は面紗《めんさ》を緊《きび》しく引締めて、身をば車の片隅に寄せ居たり。我は途すがらかゝる美しき少女に言ふべきことの限を言ひしかど、彼は車を下るとき我がさし伸べたる手にだに觸れざりき。われ。汝が大膽なることよ。汝は歌女と相識れるにあらずして、よくもさまで馴々しくはもてなしゝよ。こは我が決して敢てせざる所ぞ。友。我もさこそ思へ。汝は世の中を知らず、又女の上を知らねばなり。今日はかの女いまだ我に答へざりしかど、我には猶多少の利益あり。そは少女が我面を認めたることなり。我友はこれより我にさきの詩を誦《ず》せしめて聞き、頗妙なり、羅馬日記《ヂアリオ、ロオマ》に刻するに足ると稱へき。我等二人は杯を擧げてアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が壽《ことほぎ》をなしたり。我等のめぐりなる客も皆歌女の上を語りて口々に之を讚め居たり。
 我がベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]に別れて家に歸りしは、夜ふけて後なりき。床に上りしかど、いも寐られず。われはこよひ見し阿百拉《オペラ》の全曲を繰り返して心頭に畫き出せり。ヂド[#「ヂド」に傍線]が初めて場に上りし時、單吟《アリア》に入りし時、對歌《ヅエツトオ》せし時より、曲終りし時まで、一々肝に銘じて、其間の一節だに忘れざりき。我は手を被中《ひちゆう》より伸べて拍《う》ち鳴らし、聲を放ちてアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]と呼びぬ。次に思ひ出したるは我が心血を濺《そゝ》ぎたる詩なり。起きなほりてこれを寫し、寫し畢《をは》りてこれを讀み、讀みては自ら其妙を稱《たゝ》へき。當時はわれ此詩のやゝ情熱に過ぐるを覺えしのみにて、その名作たることをば疑はざりき。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]は必ず我詩を拾ひしならん。今は彼少女家に歸りて半ば衣を脱ぎ、絹の長椅《ソフア》の上に坐し、手もて頤《おとがひ》を支へて、ひとり我詩を讀むならん。
[#ここから2字下げ]
きみが姿を仰ぎみて、君がみ聲を聞くときは、おほそら高くあま翔《かけ》り、わたつみふかくかづきいり、かぎりある身のかぎりなき、うき世にあそぶこゝちして、うた人なりしいにしへのダヌテ[#「ダヌテ」に傍線]がふみをさながらに、おとにうつしてこよひこそ、聞くとは思へ、うため(歌女)の君に。
[#ここで字下げ終わり]
我は嘗てダンテ[#「ダンテ」に傍線]の詩をもて天下に比《たぐひ》なきものとなしき。さるを今アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が藝を見るに及びて、その我心に入ること神曲よりも深く、その我胸に迫ること神曲よりも切なるを覺えたり。その愛を歌ひ、苦を歌ひ、狂を歌ふを聞けば、神曲の變化も亦こゝに備はれり。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]我詩を讀まば、必ず我意を解して、我を知らんことを願ふならん。斯く思ひつゞけて、やう/\にして眠に就きぬ。後に思へば、我は此夕我詩を評せしにはあらで、始終詩中の人をのみ思ひたりしなり。

   をかしき樂劇

 翌日になりて、ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]を尋ね求むるに、何處にもあらざりき。ピアツツア、コロンナ[#「ピアツツア、コロンナ」に二重傍線]をばあまたゝび過ぎぬ。アントニウス[#「アントニウス」に傍線]の像を見んとてにはあらず。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]の影を見る幸もあらんかとてなり。彼君はこゝに住へり。外國人にして共に居るものもあり。いかなる月日の下に生れあひたる人にか。「ピアノ」の響する儘に耳|聳《そばだ》つれど、彼君の歌は聞えず。二聲三聲試みる樣なるは、低き「バツソオ」の音なり。樂長ならずば彼群の男の一人なるべし。幸ある人々よ。殊に羨ましきはエネエアス[#「エネエアス」に傍線]の役勤めたる男なるべし。かの君と目を見あはせ、かの君の燃ゆる如き目《ま》なざしに我面を見させ、かの君と共に國々を經めぐりて、その譽を分たんとは。かく思ひつゞくる程に、我心は怏々《あう/\》として樂まずなりぬ。忽ち鈴つけたる帽を被れる戲奴《おどけやつこ》、道化役者、魔法つかひなどに打扮《いでた》ちたる男あまた我|圍《めぐり》を跳《をど》り狂へり。けふも謝肉の祭日にて、はや其時刻にさへなりぬるを、われは心づかでありしなり。かゝる群の華かなる粧《よそほひ》、その物騷がしき聲々はます/\我心地を損じたり。車幾輛か我前を過ぐ。その御者《ぎよしや》はこと/″\く女裝せり。忌はしき行裝かな。女帽子の下より露《あらは》れたる黒髯《くろひげ》、あら/\しき身振、皆程を過ぎて醜し。我はきのふの如く此間に立ちて快を取ること能はず。今しも最後の眸を彼君の居給ふ家に注ぎて、はや踵《くびす》を囘《めぐら》さんとしたるとき、その家の門口より馳せ出る人こそあれ。こはベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]なり。滿面に打笑みて。そこに立ち盡すは何事ぞ。疾《と》く來よ。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]に引きあはせ得さすべし。彼君は汝を待ち受けたり。こは我|友誼《いうぎ》なれば。なに彼君が。と我は言ひさして、血は耳廓《みゝのは》に昇りぬ。戲《たはむれ》すな。我をいづくにか伴ひゆかんとする。友。汝が詩を贈りし人の許へ、汝も我も世の人も皆魂を奪れたる彼人の許へ、アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]の許へ。かく云ひつゝ、友は我手を取りて門の内へ引き入れたり。我。先づわれに語れ。いかにして彼君の家に往くことゝはなしたる。いかにして我を紹介するやうにはなりし。友。そは後にゆるやかにこそ物語らめ。先づその沈みたる顏色をなほさずや。我。されどこのなよびたる衣をいかにせん。かの君にあまりに無作法なりとや思はれん。かく言ひつゝ我は衣など引き繕《つくろ》ひてためらひ居たり。友。否々その衣のままにて結構なり。兎角いひ爭ふほどに我等ははや戸の前に來ぬ。戸は開けり。我はアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が前に立てり。
 衣は黒の絹なり。半紅半碧の紗《しや》は肩より胸に垂れたり。黒髮を束ねたる紐の飾は珍らしき古代の寶石なるべし。傍に、窓の方に寄りて坐りたるは、暗褐色の粗服したる媼《おうな》なり。彼君の目の色、顏の形は猶太少女といはんも理《ことわり》なきにあらずと思はる。我友がむかし猶太廓《ゲツトオ》にて見きといふ少女の事は、忽ち胸に浮びぬ。されど我心に問へば、この人その少女ならんとは思はれず。室の内には、尚一人の男居あはせたるが、わが入り來るを見て立ちあがれり。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]も亦起ちて笑みつゝ我を迎へたり。友はわざとらしき聲音《こわね》にて。これこそ我友なる大詩人に候へ。名をばアントニオ[#「アントニオ」に傍線]といひ、ボルゲエゼ[#「ボルゲエゼ」に傍線]の族《うから》の寵兒なり。主人の姫は我に向ひて。許し給へ。おん目にかゝらんことは、寔《まこと》に喜ばしき限なれど、かく強ひて迎へまつらんこと本意《ほい》なく、二たび三たび止めしに、ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]の君聽かれねば是非なし。さき
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