ホ、南の國ならでは無しといふ、たゞならぬ雲の色、目を驚かすやうなり。こは畫工のえうつさぬところなるべく、また敢て寫さぬものなるべし。あめ色の地に、橄欖《かんらん》(オリワ)の如く緑なる色の雲あるをば、樂土の苑囿《ゑんいう》に湧き出でたる山かと疑ひぬ。又|夕映《ゆふばえ》の赤きところに、暗碧なる雲の浮べるをば、天人の居る山の松林ならんと思ひて、そこの谷かげには、美しき神の童あまた休みゐ、白き翼を扇の如くつかひて、みづから涼を取るらんとおもひやりぬ。或日の夕ぐれ、いつもの如く夢ごゝろになりてゐたるが、ふと思ひ付きて、鍼《はり》もて穿《うが》ちたる紙片を目にあて、太陽を覗きはじめつ。ドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]これを見つけて、そは目を傷《そこな》ふわざぞとて日の見えぬやうに戸をさしつ。われ無事に苦みて、外に出でゝ遊ばんことを請《こ》ひ、許《ゆるし》をえたる嬉しさに、門のかたへ走りゆき、戸を推し開きつ。その時一人の男|遽《あわた》だしく驅け入りて、門口に立ちたる我を撞《つ》きまろばし、扉をはたと閉ぢたり。われは此人の蒼ざめたる面を見、その震ふ唇より洩れたる「マドンナ」(聖母)といふ一聲を聞
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