りき。この小房の窓には黄金色なる柑子《かうじ》のいと美しきありて、殆ど一間の中に垂れむとす。又聖母の畫あり。その姿は天使に擔ひ上げられて日光明なるところに浮び出でたり。下には聖母の息《いこ》ひたまひし墓穴ありて、もゝいろちいろの花これを掩《おほ》ひたり。われはかの柑子を見、この畫を見るに及びて、わづかに我にかへりしなり。
この始めて僧房をたづねし時の事は、久しき間わが空想に好き材料を與へき。今もかの時の事をおもへば、めづらしくあざやかに目の前に浮び出でむとす。わが當時の心にては、僧といふ者は全く我等の知りたる常の人とは殊なるやうなりき。かの僧が褐色の衣を着たる死人の殆どおのれとおなじさまなると共に棲《す》めること、かの僧があまたの尊き人の上を語り、あまたの不思議の蹟《あと》を話すこと、かの僧の尊さをば我母のいたく敬ひ給ふことなどを思ひ合する程に、われも人と生れたる甲斐《かひ》にかゝる人にならばやと折々おもふことありき。
母上は未亡人なりき。活計《くらし》を立つるには、鍼仕事《はりしごと》して得給ふ錢と、むかし我等が住みたりしおほいなる部屋を人に借して得給ふ價《あたひ》とあるのみなり
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