チへて驅け出《いだ》させつ。途すがらをぢは、いつもの厭はしきさまに賺《すか》し慰めき。見よ吾兒。よき驢にあらずや。走るさまは、「コルソオ」の競馬にも似ずや。我家にゆき着かば、樂しき世を送らせん。神の使もえ享《う》けぬやうなる饗應《もてなし》すべし。この話の末は、マリウチア[#「マリウチア」に傍線]を罵る千言萬句、いつ果つべしとも覺えざりき。をぢは家を遠ざかるにつれて、驢を策《むちう》たしむること少ければ、道行く人々皆このあやしき凹騎《ふたりのり》に目を注《つ》けて、美しき兒なり、何處よりか盜み來し、と問ひぬ。をぢはその度ごとに我《わが》身上話を繰り返しつ。この話をば、ほと/\道の曲りめごとに浚《さら》へ行くほどに、賣漿婆《みづうりばゞ》はをぢが長物語の酬《むくい》に、檸檬《リモネ》水|一杯《ひとつき》を白《たゞ》にて與へ、をぢと我とに分ち飮ましめ、又別に臨みて我に核《さね》の落ち去りたる松子《まつのみ》一つ得させつ。
 まだをぢが栖《すみか》にゆき着かぬに、日は暮れぬ。我は一言をも出さず、顏を掩《おほ》うて泣き居たり。をぢは我を抱き卸《おろ》して、例の大部屋の側なる狹き一間につれゆき、
前へ 次へ
全674ページ中65ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング