黷ハ。われは姫の最後に色ある衣《きぬ》を着け給ふを見き。是れ人々の生贄《いけにへ》の羔《こひつじ》を飾れるなり。姫は我傍に歩み寄りて、おん身も人々の歡《よろこび》を分ち給はずや、われ若しおん身の憂はしき面を見て別れ去らば、尼寺に入りて後に屡※[#二の字点、1−2−22]御身の上を氣づかふならん、かくてはおん身我に罪障を増させ給ふなりと宣給ふ。其聲は我が爲めに、瀕死の人の氣息を聞くが如くなりき。
 出立ち給ふ前の日の夕となりぬ。姫は神色常の如く、父君と老侯とに接吻して、あすの別の事を語り給ふ。其詞つきの、唯だ假初《かりそめ》の旅路|抔《など》に出立《いでた》ち給ふにかはらぬぞ、なか/\に哀なりける。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]に暇乞《いとまごひ》せずやといふは、フアビアニ[#「フアビアニ」に傍線]公子の聲なり。坐上にて、獨り此君のみは面に憂の色を帶び給へり。我は趨《はし》りて姫の前に出で、白く細き右手に接吻せり。姫はアントニオ[#「アントニオ」に傍線]と我名を呼び掛け給ひしが、流石にしばし口籠《くごも》りて、世に幸《さち》ある人となり給へ、さらばとて、我額に接吻し給ふ。われは夢心
前へ 次へ
全674ページ中547ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング