フ如く、美しき青海原の上に現れたり。われは小兒の情もて此景物を迎へ、心の裡《うち》に名状すべからざる喜を覺えき。
 われ等は相携へて果園に下りぬ。われは枝上の果《このみ》に接吻して、又地に墜ちたるを拾ひ、毬《まり》の如くに玩《もてあそ》びたり。友の云ふやう。げに伊太利はめでたき國なる哉。北方の故郷に在りし間、常に我|懷《おもひ》に往來《ゆきき》せしものはこの景なり、この情なり。嘗て夢裡に呑みつる霞は、今うつゝに吸ふ霞なり。故郷の牧を望みては、此|橄欖《オリワ》の林を思ひ、故郷の林檎を見ては、此|柑子《かうじ》を思ひき。されど北海の緑なる波は、終に地中海の水の藍碧なるに似ず、北國の低き空は、終に伊太利の天《そら》の光彩あるに似ざりき。汝はわが伊太利を戀ひし情のいかに切なりしかを知るか。一たび淨土を去りたるものゝ不幸は、嘗て淨土を見ざりしものゝ不幸より甚し。我故郷なる※[#「王+連」、第3水準1−88−24]馬《デンマルク》は美ならざるに非ず。山毛欅《ぶな》の林の鬱として空を限るあり。東海の水の闊《ひろ》くして天に連《つらな》るあり。されど是れ皆|猶《なほ》人界の美のみ。伊太利は天國なり、
前へ 次へ
全674ページ中328ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング