゚《よぎ》りし街なり。木葉《このは》も草花も猶地上にあり。されど當時織り成したる華紋は、吾少時の福《さいはひ》と倶に、きのふの祭の樂と倶に、今や跡なくなりぬ。幽堂《つかあな》の穹窿を塞《ふさ》ぎたる大石を推し退け、柩を下ししに、底なる他《ほか》の柩と相觸れて、かすかなる響をなせり。僧等の去りしあとにて、マリウチア[#「マリウチア」に傍線]は我を石上に跪《ひざまづ》かせ、「オオラ、プロオ、ノオビス」(祷爲我等《いのれわれらがために》)を唱へしめき。
ジエンツアノ[#「ジエンツアノ」に二重傍線]を立ちしは月あかき夜なりき。フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]と知らぬ人ふたりと我を伴ひゆく。濃き雲はアルバノ[#「アルバノ」に二重傍線]の巓《いたゞき》を繞《めぐ》れり。我がカムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の野を飛びゆく輕き霧を眺むる間、人々はもの言ふこと少かりき。幾《いくばく》もあらぬに、我は車の中に眠り、聖母を夢み、花を夢み、母上を夢みき。母上は猶生きて、我にものいひ、我顏を見てほゝ笑み給へり。
蹇丐
羅馬なる母上の住み給ひし家に歸りし後、人々は我をいかにせんかと議するが中に、フラア・マルチノ[#「フラア・マルチノ」に傍線]はカムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の野に羊飼へる、マリウチア[#「マリウチア」に傍線]が父母にあづけんといふ。盾銀二十は、牧者が上にては得易からぬ寶なれば、この兒を家におきて養ふはいふもさらなり、又心のうちに喜びて迎ふるならん。さはあれ、この兒は既に半ば出家したるものなり。カムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の野にゆきては、香爐を提げて寺中の職をなさんやうなし。かくマルチノ[#「マルチノ」に傍線]の心たゆたふと共に、フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]も云ふやう。われは此兒をカムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]にやりて、百姓にせんこと惜しければ、この羅馬市中にて、然るべき人を見立て、これにあづくるに若《し》かずといふ。マルチノ[#「マルチノ」に傍線]思ひ定めかねて、僧たちと謀《はか》らんとて去《いぬ》る折柄、ペツポ[#「ペツポ」に傍線]のをぢは例の木履《きぐつ》を手に穿《は》きていざり來ぬ。をぢは母上のみまかり給ひしを聞き、又人の我に盾銀二十を貽《おく》りしを聞き、母上の追悼《くやみ》よりは、かの金の發落《なりゆき》のこゝろづかひのために、こゝには訪《おとづ》れ來ぬるなり。をぢは聲振り立てゝいふやう。この孤《みなしご》の族《うから》にて世にあるものは、今われひとりなり。孤をばわれ引き取りて世話すべし。その代りには、此家に殘りたる物悉くわが方へ受け收むべし。かの盾銀二十は勿論なりといふ。マリウチア[#「マリウチア」に傍線]は臆面せぬ女なれば、進み出でゝ、おのれフラア・マルチノ[#「フラア・マルチノ」に傍線]其餘の人々とこゝの始末をば油斷なく取り行ふべければ、おのが一身をだにもてあましたる乞丐《かたゐ》の益なきこと言はんより、疾く歸れといふ。フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]は席を立ちぬ。マリウチア[#「マリウチア」に傍線]とペツポ[#「ペツポ」に傍線]のをぢとは、跡に殘りてはしたなく言ひ罵り、いづれも多少の利慾を離れざる、きたなき爭をなしたり。マリウチア[#「マリウチア」に傍線]のいふやう。この兒をさほど欲《ほ》しと思はゞ、直に連れて歸りても好し。若し肋《あばら》二三本打ち折りて、おなじやうなる畸形《かたは》となし、往來《ゆきゝ》の人の袖に縋らせんとならば、それも好し。盾銀二十枚をば、われこゝに持ち居れば、フラア・マルチノ[#「フラア・マルチノ」に傍線]の來給ふまで、決して他人に渡さじといふ。ペツポ[#「ペツポ」に傍線]怒りて、頑《かたくな》なる女かな、この木履もてそちが頭に、ピアツツア、デル、ポヽロ[#「ピアツツア、デル、ポヽロ」に二重傍線]の通衢《おほぢ》のやうなる穴を穿《あ》けんと叫びぬ。われは二人が間に立ちて、泣き居たるに、マリウチア[#「マリウチア」に傍線]は我を推しやり、をぢは我を引き寄せたり。をぢのいふやう。唯だ我に隨ひ來よ。我を頼めよ。この負擔だに我方にあらば、その報酬も受けらるべし。羅馬の裁判所に公平なる沙汰なからんや。かく云ひつゝ、強ひて我を※[#「てへん+止」、第3水準1−84−71]《ひ》きて戸を出でたるに、こゝには襤褸《ぼろ》着たる童《わらべ》ありて、一頭の驢《うさぎうま》を牽《ひ》けり。をぢは遠きところに往くとき、又急ぐことあるときは、枯れたる足を、驢の兩脇にひたと押し付け、おのが身と驢と一つ體になりたるやうにし、例の木履のかはりに走らするが常なれば、けふもかく騎《の》りて來しなるべし。をぢは我をも驢背《ろはい》に抱き上げたるに、かの童は後より一鞭
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