ホ、南の國ならでは無しといふ、たゞならぬ雲の色、目を驚かすやうなり。こは畫工のえうつさぬところなるべく、また敢て寫さぬものなるべし。あめ色の地に、橄欖《かんらん》(オリワ)の如く緑なる色の雲あるをば、樂土の苑囿《ゑんいう》に湧き出でたる山かと疑ひぬ。又|夕映《ゆふばえ》の赤きところに、暗碧なる雲の浮べるをば、天人の居る山の松林ならんと思ひて、そこの谷かげには、美しき神の童あまた休みゐ、白き翼を扇の如くつかひて、みづから涼を取るらんとおもひやりぬ。或日の夕ぐれ、いつもの如く夢ごゝろになりてゐたるが、ふと思ひ付きて、鍼《はり》もて穿《うが》ちたる紙片を目にあて、太陽を覗きはじめつ。ドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]これを見つけて、そは目を傷《そこな》ふわざぞとて日の見えぬやうに戸をさしつ。われ無事に苦みて、外に出でゝ遊ばんことを請《こ》ひ、許《ゆるし》をえたる嬉しさに、門のかたへ走りゆき、戸を推し開きつ。その時一人の男|遽《あわた》だしく驅け入りて、門口に立ちたる我を撞《つ》きまろばし、扉をはたと閉ぢたり。われは此人の蒼ざめたる面を見、その震ふ唇より洩れたる「マドンナ」(聖母)といふ一聲を聞きも果てぬに、おそろしき勢にて、外より戸を衝《つ》くものあり。裂け飛んだる板は我頭に觸れんとせり。その時戸口を塞《ふさ》ぎたるは、血ばしる眼《まなこ》を我等に注ぎたる、水牛の頭なりき。ドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]はあと叫びて、我手を握り、上の間にゆく梯《はしご》を二足三足のぼりぬ。逃げ込みたる男は、あたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]はし、ベネデツトオ[#「ベネデツトオ」に傍線]が銃の壁に掛かりたるを見出しつ。こは賊なんどの入らん折の備にとて、丸《たま》をこめおきたるなり。男は手早く銃を取りぬ。耳を貫く響と共に、烟は狹き家に滿ちわたれり。われは彼男の烟の中にて、銃把を擧げて、水牛の額を撃つを見たり。獸は隘《せば》き戸口にはさまりて前にも後にもえ動かざりしなり。
 こは何事をかし給ふ。君は物の命を取り給ひぬ。この詞はドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]が纔《わづか》にわれにかへりたる口より出でぬ。かの男。否聖母の惠なりき。我等が命を拾ひぬとこそおもへ。さて我を抱き上げて、されどわがために戸を開きしはこの恩人なりといひき。男の面は猶蒼く、額の汗は玉をなしたり。その語を聞くに
前へ 次へ
全337ページ中44ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング