普sかはほり》をなおそれそ。かなたこなたへ飛びめぐれど、入るものにはあらず。神の子と共に熟寐《うまい》せよ。斯く云ひ畢《をは》りて、をぢは戸を鎖《と》ぢて去りぬ。
 をぢの部屋には久しく立ち働く音聞えしが、今は人あまた集《つど》へりと覺しく、さま/″\の聲して、戸の隙《ひま》よりは光もさしたり。部屋のさまは見まほしけれど、枯れたる玉蜀黍の莢のさわ/\と鳴らば、おそろしきをぢの又入來ることもやと、いと徐《しづか》に起き上りて、戸の隙に目をさし寄せつ。燈心は二すぢともに燃えたり。卓には麺包《パン》あり、莱※[#「くさかんむり/服」、第4水準2−86−29]《だいこん》あり。一瓶の酒を置いて、丐兒《かたゐ》あまた杯《さかづき》のとりやりす。一人として畸形《かたは》ならぬはなし。いつもの顏色には似もやらねど、知らぬものにはあらず。晝はモンテ、ピンチヨオ[#「モンテ、ピンチヨオ」に二重傍線]の草を褥《しとね》とし、繃帶したる頭を木の幹によせかけ、僅に唇を搖《うごか》すのみにて、傍に侍《はべ》らせたる妻といふ女に、熱にて死に垂《なん/\》としたる我夫を憐み給へ、といはせたるロレンツオ[#「ロレンツオ」に傍線]は、高趺《たかあぐら》かきて面白げに饒舌《しやべ》り立てたり。(注。モンテ、ピンチヨオ[#「モンテ、ピンチヨオ」に二重傍線]には公園あり。西班牙《スパニヤ》磴《いしだん》、法蘭西《フランス》大學院よりポルタ、デル、ポヽロ[#「ポルタ、デル、ポヽロ」に二重傍線]に至る。羅馬の市の過半とヰルラ、ボルゲエゼ[#「ヰルラ、ボルゲエゼ」に二重傍線]の内苑とはこゝより見ゆ。)十指墮ちたるフランチア[#「フランチア」に傍線]は盲婦カテリナ[#「カテリナ」に傍線]が肩を叩きて、「カワリエエレ、トルキノ」の曲を歌へり。戸に近き二人三人は蔭になりて見えわかず。話は我上なり。我胸は騷ぎ立ちぬ。あの小童《こわつぱ》物の用に立つべきか、身内に何の畸形《かたは》なるところかある、と一人云へば、をぢ答へて。聖母は無慈悲にも、創一つなく育たせしに、丈《たけ》伸びて美しければ、貴族の子かとおもはるゝ程なりといふ。幸《さち》なきことよ、と皆口々に笑ひぬ。瞽《めしひ》たるカテリナ[#「カテリナ」に傍線]のいふやう。さりとて聖母の天上の飯を賜《たま》ふまでは、此世の飯をもらふすべなくては叶はず。手にもあれ、足にも
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