チへて驅け出《いだ》させつ。途すがらをぢは、いつもの厭はしきさまに賺《すか》し慰めき。見よ吾兒。よき驢にあらずや。走るさまは、「コルソオ」の競馬にも似ずや。我家にゆき着かば、樂しき世を送らせん。神の使もえ享《う》けぬやうなる饗應《もてなし》すべし。この話の末は、マリウチア[#「マリウチア」に傍線]を罵る千言萬句、いつ果つべしとも覺えざりき。をぢは家を遠ざかるにつれて、驢を策《むちう》たしむること少ければ、道行く人々皆このあやしき凹騎《ふたりのり》に目を注《つ》けて、美しき兒なり、何處よりか盜み來し、と問ひぬ。をぢはその度ごとに我《わが》身上話を繰り返しつ。この話をば、ほと/\道の曲りめごとに浚《さら》へ行くほどに、賣漿婆《みづうりばゞ》はをぢが長物語の酬《むくい》に、檸檬《リモネ》水|一杯《ひとつき》を白《たゞ》にて與へ、をぢと我とに分ち飮ましめ、又別に臨みて我に核《さね》の落ち去りたる松子《まつのみ》一つ得させつ。
 まだをぢが栖《すみか》にゆき着かぬに、日は暮れぬ。我は一言をも出さず、顏を掩《おほ》うて泣き居たり。をぢは我を抱き卸《おろ》して、例の大部屋の側なる狹き一間につれゆき、一隅に玉蜀黍《たうもろこし》の莢《さや》敷きたるを指し示し、あれこそ汝が臥床《ふしど》なれ、さきには善き檸檬水呑ませたれば、まだ喉も乾かざるべく、腹も減らざるべし、と我頬を撫でゝ微笑《ほゝゑ》みたる、その面恐しきこと譬《たと》へんに物なし。マリウチア[#「マリウチア」に傍線]が持ちたる嚢には、猶銀幾ばくかある。馭者《エツツリノ》に與ふる錢をも、あの中よりや出しゝ。貴人の僕は、金もて來しとき、何といひしか。かく問ひ掛けられて、我はたゞ知らずとのみ答へ、はては泣聲になりて、いつまでもこゝに居ることにや、あすは家に歸らるゝことにや、と問ひぬ。勿論なり。いかでか歸られぬ事あらん。おとなしくそこに寐よ。「アヱ、マリア」を唱ふることを忘るな。人の眠る時は鬼の醒めたる時なり。十字を截《き》りて寐よ。この鐵壁をば吼《たけ》る獅子《しゝ》も越えずといふ。神を祈らば、あのマリウチア[#「マリウチア」に傍線]の腐女《くさりをんな》が、そちにも我にも難儀を掛けたるを訴へて、毒に中《あた》り、惡瘡を發するやうに呪へかし。おとなしく寐よ。小窓をば開けておくべし。涼風《すゞかぜ》は夕餉《ゆふげ》の半といふ諺あり。蝙
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