ネるを、わが悟りしはかしこなり。彼廊に一室あり。そは最も小なる室にして、わが最も好める室なり。今若し君をかしこに在らしむることを得ば、君は能くわがむかしの喜を解し、又能くわが今日そを想起《おもひおこ》す喜を解し給はん。この八角に築きたる室には、實に全廊の尤物《いうぶつ》を擢《ぬきん》でゝ陳列せり。されどその尤物の皆けおさるるは、メヂチ[#「メヂチ」に傍線]のヱヌス[#「ヱヌス」に傍線]の石像あればなり。かくまでに生けるが如き石像をば、われこの外に見しことなし。その目は人を視る如し。あらず。人の心の底を觀る如し。石像の背後には、チチアノ[#「チチアノ」に傍線]の畫けるヱヌス[#「ヱヌス」に傍線]の油畫二幅を懸けたり。その色彩目を奪ふと雖《いへども》、こゝに寫し得たるは人間の美しさにして、彼石の現せるは天上の美しさなり。ラフアエロ[#「ラフアエロ」に傍線]がフオルナリイナ[#「フオルナリイナ」に傍線](作者意中の人)は心を動すに足らざるにあらず。されどヱヌス[#「ヱヌス」に傍線]の生けるをば、われあまたゝび顧みざること能はず。否々、おほよそ世に彫像多しと雖、いづれか彼ヱヌス[#「ヱヌス」に傍線]の右に出づべき。ラオコオン[#「ラオコオン」に傍線]にてはまことに石の痛楚《つうそ》のために泣くを見る。しかも猶及ばざるところあり。獨り我ヱヌス[#「ヱヌス」に傍線]と美を※[#「女+貔のつくり」、55−中段−5]《くら》ぶるは、君も知り給へるワチカアノ[#「ワチカアノ」に二重傍線]のアポルロン[#「アポルロン」に傍線]ならん。その詩神を摸したる力量は、彼ヱヌス[#「ヱヌス」に傍線]に於きてやさしき美の神を造れるなり。我答へて。君の愛《め》で給ふ像を石膏に寫したるをば、我も見き。姫。否、われは石膏の型《かた》ばかり整はざるものはなしと思へり。石膏の顏は死顏なり。大理石には命あり靈あり。石はやがて肌肉となり、血は其下を行くに似たり。フイレンチエ[#「フイレンチエ」に二重傍線]まで共に行き給はずや。さらばわれ君が案内すべし。我は姫が志の厚きを謝して、さていひけるは、さらば再生祭の後ならでは、又相見んこと難かるべしといふ。姫こたへて。さなり。聖ピエトロ[#「ピエトロ」に傍線]寺の燈を點し、烟火戲《ジランドラ》を上ぐる折は、我等が相逢ふべき時ならん。それまでは君われを忘れ給ふな。我はまた
前へ
次へ
全337ページ中112ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング