B又いかにして我をさへ紹介しつる。我は猶さきよりの事を夢かと疑はんとす。友。わが少女の許を訪れしは、別にめづらしき機會を得しにあらず。羅馬貴族の一人、法皇|禁軍《このゑ》の一將校、すべての美しきものを敬する人のひとりとして、姫をば見舞つるなり。若し又戀といふものゝ上より云はゞ、この理由の半ばをだに須《もち》ゐざるならん。されば我が姫を訪ひて、汝も前《さき》に見つる如き紹介なき客に劣らぬ、善き待遇を得しこと、復た怪むに足らざるべし。且《また》戀はいつも我交際の技倆を進む。彼と相對するときは、倦怠せしめざる程の事我掌中に在り。相見てよりまだ半時間を經ざるに、我等は頗《すこぶ》る相識ることを得き。さてかくは汝をさへ引合せつるなり。我。さては汝彼君を愛すといふか。眞心もて愛すといふか。友。然り、今は昔にもまして愛するやうになりぬ。さきに猶太廓にて我に酒を勸めし少女の、今のアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]なることは、最早疑ふべからず。わが始て居向ひしとき、姫は分明《ぶんみやう》に我を認むるさまなりき。かの老いたる猶太婦人の詞すくなく、韈《くつした》編めるも、わがためには一人の證人なり。されどアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]は生れながらの猶太婦人にあらず。初め我がしかおもひしは、其髮の黒く、其瞳の暗きと其境界とのために惑はされしのみ。今思へば姫は矢張《やはり》基督教の民なり。終には樂土に生るべき人なり。
 この夕ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]と芝居にて逢ふことを約しき。されど餘りの大入なれば、我はつひに吾友を見出すこと能はざりき。我は辛く一席を購《あがな》ふことを得き。いづれの棧敷《さじき》にも客滿ちて、暑さは人を壓するやうなり。演劇はまだ始まらぬに、我身は熱せり。きのふけふの事、わがためには渾《すべ》て夢の如くなりき。かゝる折に逢ひて、我心を鎭めんとするに、最も不恰好なるは、蓋《けだ》し今宵の一曲なりしならん。世に知れわたりたる如く、樂劇の本讀といふは、極めて放肆《はうし》なる空想の産物なり。全篇を貫ける脈絡あるにあらず。詩人も樂人も、只管《ひたすら》觀客をして絶倒せしめ、兼ねて許多《あまた》の俳優に喝采を博する機會を與へんことを勉めたるなり。主人公は我儘にして動き易き性なる男女二人にして、これを主なる歌女及譜を作る樂人とす。絶間なき可笑しさは、盡る
前へ 次へ
全337ページ中104ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング