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 喝采の聲は屋《いへ》を撼《うごか》せり。幕下りて後も、アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]、アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]と呼ぶ聲止まねば、歌女は面《おもて》を幕の外にあらはして、謝することあまたゝびなりき。
 第二|齣《せつ》の妙は初齣を踰《こ》ゆること一等なりき。これヂド[#「ヂド」に傍線]とエネエアス[#「エネエアス」に傍線]との對歌《ヅエツトオ》なり。ヂド[#「ヂド」に傍線]は無情なる夫のせめては啓行《いでたち》の日を緩《おそ》うせんことを願へり。君が爲めにはわれリユビア[#「リユビア」に二重傍線]の種族を辱《はづかし》めき。君がためにはわれ亞弗利加《アフリカ》の侯伯に負《そむ》きぬ。君がために恥を忘れ、君がために操を破りたるわれは、トロアス[#「トロアス」に二重傍線]に向けて一|隻《せき》の舟をだに出さゞりき。我はアンヒイゼス[#「アンヒイゼス」に傍線](エネエアス[#「エネエアス」に傍線]の父)が靈の地下に安からんことを勉めき。これを聞きて我涙は千行《ちすぢ》に下りぬ。この時萬客聲を呑みてその感の我に同じきを證したり。
 エネエアス[#「エネエアス」に傍線]は行きぬ。ヂド[#「ヂド」に傍線]は色を喪《うしな》ひて凝立すること少《しば》らくなりき。その状《さま》ニオベ[#「ニオベ」に傍線](子を射殺されて石に化した女神)の如し。俄《にはか》にして渾身の血は湧き立てり。これ最早ヂド[#「ヂド」に傍線]ならず、戀人なるヂド[#「ヂド」に傍線]、棄婦《きふ》なるヂド[#「ヂド」に傍線]ならず。彼は生《いき》ながら怨靈《をんりやう》となれり。その美しき面は毒を吐けり。その表情の力の大いなる、今まで共に嘆きし萬客をして忽《たちまち》又共に怒らしむ。フイレンツエ[#「フイレンツエ」に二重傍線]の博物館に、レオナルドオ・ダ・ヰンチ[#「レオナルドオ・ダ・ヰンチ」に傍線]が畫きたるメヅウザ[#「メヅウザ」に傍線](おそろしき女神)の頭あり。これを觀るもの怖るれども去ること能はず。大海の底に毒泡あり。能くアフロヂテ[#「アフロヂテ」に傍線]を作りぬ。その目の状《さま》は言ふことを須《ま》たず、その口の形さへ、能く人を殺さんとす。
 エネエアス[#「エネエアス」に傍線]が舟は波を蹴て遠ざかりゆけり。ヂド[#「ヂド」に傍線]は夫の遺《わす》れたる武器を取りて
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