モしど》の跡を見、媼が經卷|珠數《じゆず》と共に藏したる我畫|反古《ほご》を見、また爐の側にて燒栗を噛みつゝ昔語せばやとおもふ心を聞え上げぬ。暇乞《いとまごひ》して出でんとせしとき、夫人は館を顧みてのたまふやう。學校は智育に心を用ゐると覺ゆれど、作法の末まではゆきとゞかぬなるべし。この子の禮《ゐや》するさまこそ可笑しけれ。世の中に出でん後は、これをも忽《ゆるがせ》にすべからず。されど、アントニオ[#「アントニオ」に傍線]よ、心をだに附けなば、そはおのづから直るべきものぞ。
 學校に還らんとて館を出でしは、まだ宵の程なりしが、街はいと暗かりき。羅馬の市に竿燈《かんとう》を點《つ》くるは近き世の事にて、其の頃はまださるものなかりしなり。狹き枝みちに歩み入れば、平ならざる道を照すもの唯だ聖母の像の御前《みまへ》に供へたる油燈のみなり。われは心のうちに晝の程の事どもを思ひめぐらしつゝ、徐《しづか》にあゆみを運びぬ。固より咫尺《しせき》の間もさやかには見えねば、忽ち我手に觸るゝものあるに驚きて、われはまだ何とも思ひ定めぬ時、耳慣れたる聲音にて、奇怪なる人かな、目をさへ撞《つ》きつぶされなば、道はいよ/\見えずやならんといふ。われは喜のあまりに聲高く叫びて、さてはベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]なるよ、嬉くも逢ひけるものかなといひぬ。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]か、可笑き再會もあるものよと、友は我を抱きたり。さるにても何處よりか來し。忍びて訪ふところやある。そは汝に似合はしからず。されど我に見現されぬれば是非なし。例の獄丁はいづくに居る。學校よりつけたる道づれは。我。否けふはひとりなり。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]。ひとりとは面白し。汝も天晴《あつぱれ》なる少年なり。我と共に法皇の護衞に入らずや。
 我は恩人夫婦のこゝに來ませし喜を告げしに、吾友も亦喜びぬ。これよりは足の行くに任せて、暗路を辿りつゝ、別れての後の事どもを語りあひぬ。

   猶太《ユダヤ》の翁

 途すがらベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]の云ふやう。我は今こそ浮世の樣をも見ることを得つれ。そなた等が世にあるは、唯だ世にありといふ名のみにて、まだ襁褓《むつき》の中を出でざるにひとし。冷なる學校の榻《たふ》に坐して、黴《かび》の生《は》えたるハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダア
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