ネあしらひそ。尊きジユウゼツペ[#「ジユウゼツペ」に傍線](ペツポ[#「ペツポ」に傍線]はこの名を約《つゞ》めたるなり)の上を思はゞ、我名を忘るゝことなからん。暫く見ぬ隙に、おとなびたることよ。かく親しく物言はるゝ程に、道行く人は怪みて我面を見たり。我は放ち給へと叫びて裾を引けども、ペツポ[#「ペツポ」に傍線]は容易《たやす》く手をゆるめず。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]よ。共に驢《うさぎうま》に乘りし日の事を忘れしか。善き兒なるかな。今は丈高き馬に乘れば、最早我を顧みざるならん。母の同胞《はらから》の西班牙の磴にあるを訪はざるならん。そちも我手に接吻せしことあり。そちも我宿の一束の藁を敷寢せしことあり。昔をわすれなせそ。かくかきくどかるゝうるさゝに、我は力を極めて裾ひきはなち、車の間をくゞりぬけて、横街に馳せ入りぬ。
 我胸は跳《をど》れり。こは驚のためのみにはあらず、辱《はづかしめ》のためなりき。我はをぢがもろ人の前に我を辱めたりとおもひき。されど此心は久しからずして止み、これに代りて起りしは、これよりも苦しき情なりき。をぢが詞は一つとして僞ならず。われはまことにペツポ[#「ペツポ」に傍線]が一人の甥なり。わがこれに對して恩すくなかりしは、そも/\何故ぞ。若し餘所に見る人なくば、我は昔の如くをぢの手に接吻せしならん。さるを今かく殘忍なる振舞せしは、わが罪深き名譽心にあらずや。われは自ら愧《は》ぢ、又神に恥ぢて、我胸は燃ゆる如くなりき。
 この時|聖《サン》アゴスチノ[#「アゴスチノ」に傍線]寺の「アヱ、マリア」の鐘の聲響きしかば、われは懺悔せんとて寺の内に入りぬ。高き穹窿の下は暗くして人影絶えたり。卓の上なる蝋燭は僅に燃ゆれども光なかりき。われは聖母の前に伏し沈みて、心の重荷をおろさんとしつ。忽ち我側にありて、我名を呼ぶ人あり。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]の君よ。館《やかた》も御奧もフイレンツエ[#「フイレンツエ」に二重傍線]より歸り來ませり。かしこにて設け給ひし穉《をさな》き姫君をも伴ひ給ひぬ。今より共に往きて喜をのべ給はずやといふ。寺の内の暗さに見えざりしが、かく言はれてその人を見れば、我恩人の館なる門者《かどもり》の妻にてフエネルラ[#「フエネルラ」に傍線]といふものなりき。年久しく相見ざりし人々に逢はせんといふが嬉しさに、われは共に足を早め
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