sず》したり。式場は忽ち水を打ちたるやうに鎭まりぬ。讀誦《どくじゆ》の力あるに、聽くもの皆感動したるなり。われは初より隻句を遺《のこ》さず諳《そらん》じたり。されど今改めてこれを聽けば、ほと/\ダンテ[#「ダンテ」に傍線]其人の作を聞くが如くおもはれぬ。誦し畢《をは》りし時、場に臨みたる人々は、悉く喝采せり。僧官達は席を離れ給ひぬ。式はこゝに終れるが如く、桂冠はベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]がものと定りぬ。次なる英語の詩をば、人々止むことを得ずして聽き、又止むことを得ずして拍手せしのみ。その畢るや、滿場の話柄はベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]がダンテ[#「ダンテ」に傍線]の詩の上にかへりぬ。
 我頬は火の如くなりき。我胸は擴まりたり。我心は人々のベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]がために焚ける香の烟を吸ひて、ほと/\醉へるが如くなりき。この時われは友の方を打ち見たるに、彼が容貌はいたく常にかはりて見えき。その面色土の如く、目を床に注ぎて立てるさまは、重き罪を犯したる人の如くなりき。ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]も亦いたく不興げなるおも持して、心こゝにあらねばか、その手にしたる桂冠を摘み碎かんとする如くなりき。僧官のうちなる一人、迺《すなは》ちこれを取りて、ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]が前に進み給ひぬ。我友は此時|跪《ひざまづ》きたるが、もろ手に面を掩《おほ》ひて、この冠を頭に受けたり。
 式畢りて後、われは友の側に歩み寄りしに、彼は明日こそと云ひもあへず、走り去りぬ。翌日になりても、彼は我を避けて、共に語らざりき。我は唯だ一人なる友を失へるやうに覺えて、憂きに堪へざりき。二日過ぎて、ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]は我頸を擁《いだ》き、我手を把《と》りていふやう。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]よ。今こそは我心を語らめ。桂冠の我頭に觸れたる時は、われは百千《もゝち》の棘《いばら》もて刺さるゝ如くなりき。人々の我を譽むる聲は、我を嘲るが如くなりき。この譽を受くべきは、我に非ずして汝なればなり。我は汝が目のうちなる喜の色を見き。汝知らずや。この時われは汝を憎みたり。おもふに我はこゝにありて、今迄の如く汝に交ることを得ざるべし。この故に我はこゝを去らんとす。試におもへ。明年の式あらんとき、われ又汝が羽毛
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