モミ來りぬ。われは長く机に倚《よ》ることを好まず。神曲の大いなる二卷には、我とほ/\厭《あぐ》みしが、これぞハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]が禁ずるところとおもひ/\、勇を鼓して讀みとほしつ。後にはかのふみ我にさへ面白くなりて、今は早や三たび閲しつ。その地獄のめでたさよ。汝はハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]の墮つべきを何處とか思へる。火のかたなるべきか、冰《こほり》のかたなるべきか。
 わが祕事は訐《あば》かれたり。されどベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]はこれを人に語るべくもあらず。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]とわれとの交は、この時より一際《ひときは》密になりぬ。旁《かたはら》に人なき時は、われ等の物語は必ず神曲の事にうつりぬ。わがこれを讀みて感じたるところをば、必ずベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]に語り聞かせたり。この間にわが文字を知りてよりの初の詩は成りぬ。その題はダンテ[#「ダンテ」に傍線]と其神曲となりき。
 わが買ひ得たる神曲の首《はじめ》には、ダンテ[#「ダンテ」に傍線]が傳を刻したりき。そはいたく省略したるものなりしかど、尚わが詩材とするに堪へたれば、われはこれに據りて、此詩人の生涯を歌ひき。ベアトリチエ[#「ベアトリチエ」に傍線]との淨《きよ》き戀、戰爭の間の苦、逐客《ちくかく》となりてアルピイ[#「アルピイ」に二重傍線]山を踰《こ》えし旅の憂さ、異郷の鬼となりし哀さ、皆我詩中のものとなりぬ。わが最も力を用ゐしは、ダンテ[#「ダンテ」に傍線]が靈魂|天翔《あまかけ》りて、人間地獄を見おろす一段なりき。その敍事は省筆を以て、神曲の梗概を摸寫したるものなりき。淨火は又燃え上れり。果實累々たる、樂園の木のこずゑは、漲《みなぎ》り落つる瀑布の水に浸されたり。ダンテ[#「ダンテ」に傍線]が乘りたる、そら行く舟は、神童の白く大なる翼を帆としたり。その舟次第に騰《のぼ》りゆく程に、山々は搖り動《うごか》されたり。太陽とそのめぐりなる神童の群とは、明鏡の如く、神の光明を映じ出せり。この時に遇ふものは、賢きも愚なるも、こゝろ/″\に無上の樂を覺えたり。
 誦《ず》してベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]に聞せしに、彼はこれを激稱せり。彼のいはく。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]よ。次の祭の日に
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