ノべ》の海より聞ゆる苦痛の聲は、我胸を衝《つ》きたり。われは「シモニスト」の群を見き。その浮き出でゝは、鬼の持てる鋭き鐵搭《くまで》にかけられて、又沈めらるゝを見き。ダンテ[#「ダンテ」に傍線]が敍事の生けるが如きために、其|状《さま》深くも我心に彫《ゑ》りつけられたるにや、晝は我念頭に上り、夜は我夢中に入りぬ。我囈語《うはごと》の間には、屡※[#二の字点、1−2−22]「パペ、サタン、アレツプ、サタン、パペ」といふ詞聞えぬ。こはわが讀みたる神曲の文なるを、同房の書生はさりとも知らねば、我魂まことに惡魔に責められたるかと疑ひ惑ひぬ。教場に出でゝも、我心は課程に在らざりき。師の聲にて、アントニオ[#「アントニオ」に傍線]よ、又何事をか夢みたる、と問はるゝ毎に、われは且恐れ且恥ぢたり。されどこの儘に神曲を擲《なげう》たんことは、わがなすこと能はざるところなりき。
 我が暮らす日の長く又重きことは、ダンテ[#「ダンテ」に傍線]が地獄にて負心《ふしん》の人の被《き》るといふ鍍金《めつき》したる鉛の上衣の如くなりき。夜に入れば、又我禁斷の果に匍《は》ひ寄りて、その惡鬼に我妄想の罪を數《せ》めらる。かの人を螫《さ》しては※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《ほのほ》に入り、一たびは烟となれど、又「フヨニツクス」(自ら焚《や》けて後、再び灰より生るゝ怪鳥)の如く生れ出でゝ、毒を吐き人を傷《やぶ》るといふ蛇の刺《はり》をば、われ自ら我膚の上に受くと覺えき。
 わが夢中に地獄と呼び、罪人と叫ぶを聞きて、同房の書生は驚き醒むることしば/\なりき。或る朝老僧の舍監を勤むるが、我|臥床《ふしど》の前に來しに、われ眠れるまゝに眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》き、おのれ魔王と叫びもあへず、半ば身を起してこれに抱きつき、暫し角力《すま》ひて、又枕に就きしことあり。
 わがよな/\惡魔に責めらるといふ噂は、やう/\高くなりぬ。我床には呪水を灑《そゝ》ぎぬ。わが眠に就くときは、僧來りて祈祷を勸めたり。此處置は益※[#二の字点、1−2−22]我心を妥《おだやか》ならざらしめき。囈語《うはごと》の由りて出づるところは、われ自ら知れり。これを隱して人を欺《あざむ》くことの快からぬために、我血はいよ/\騷ぎ立ちぬ。數日の後、反動の期至り、我心は風の吹き荒れたる迹《あと》
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